桜田淳子さんの小さなイベント [桜田淳子]
時は静かに去って行く。
楽しい時は速く。
苦しい時は遅く。
それでも、確実に去って行く。
そうした時の流れの中で、もがき苦しみ、喜ぶ。
法律が最低限の道徳であるべきかどうかはさておき、法の世界でも、時の経過には、格別の配慮がなされる。
20年間『沈黙』を守った人がいる。
否定的な見方を耐えた人がいる。
そして、今、自ら『沈黙』を破ろうとしている。
その意味は深いし、語るには耐えない。
僕には、到底それを目撃することはできない。
今月26日、桜田淳子さんの『ファン感謝デー』が開催される。
時が来たのかもしれない。
いや、長年、草の根の活動をされたファンも含めて、『時』を創り出したのかもしれない。
しかし、その『一日』すら否定するのなら、もはや語る術すらないし、これまで感じたことがない怒りすら感じる。
紀藤正樹弁護士は、マスコミにも登場する有名人であり、消費者問題に取り組む正義感がある方だと思っている。
しかし、いかに、目的が正しくても、選ぶ手段が受け入れられなければ、それを、社会正義とは言わないのではないだろうか。
私には、統一協会問題を、再び社会問題とすることにより、法廷闘争を有利に運ぶために、実名報道しているようにしか映らない。
もはや広告塔の範囲すら踏み越えているのかと思わせる。
法律論であるならば、目的と手段の均衡を図る必要があるのではないだろうか。
逸脱した手段にいかなる正義もないと思う。
私は、桜田淳子さんを信じているし、イベントを企画したビクターや会場となる博品館が、真摯な企画をしたものだと信じている。
氏は、ブロクの中で『子供たちの夢』まで引き合いに出しているが、『子供の頃の夢』を壊されたファンの思いをどう思うのだろうか。
中学生の時、小遣い銭を握りしめレコードを買いに走った僕らの思いは壊されたままでいいのだろうか。
20年の時を超え、ファンは、小さな空間に集う。
私は、そんな長年応援してくれていたファンの喜びの声を聞きたい。
時を忘れるひと時が、平穏に過ぎて行くことをひとえに願う。
歴史の修正力~桜田淳子さんを忘れざりしや [桜田淳子]
『歴史』というものは、どこまで続くのだろうか。
『時代』というものは、どこまでうつろうものなのだろうか。
『世相』というは、どこまでわがままなものだろうか。
そんなことを感じさせる次のニュースだった。
また、繰り返されたの念がある。
『何をか言わんや』
実は、昨年8月ロンドンオリンピックに端を発した竹島問題から、強い問題意識を持った。
しかし、何から書くべきかと思った。
ブログのタイトルは、すぐに決まった。
いささか反語ではあるが、なにを言おうか、言うことがなにもない。あきれてなにも言えない。
まさに、そんな気持ちだった。
それから日々のニュースを追いかけたりした。
いつも行き着くのは、『この失われた20年』だった。
下がる一方だった。
国力も、国際的地位も、経済力も、名誉も・・・。
これは、政治の話ばかりではない。
芸能界とて、質・量とも変わり果てたように思えてならない。
これまで、働くだけ働いてふり向くことを忘れていた私には、価値観がこれほど変わったかとさえ思った。
本来このブログ作成のきっかけは、桜田淳子さんのあまりに低い評価と誤った先導への疑問だった。
むしろ、桜田淳子さんの功績も存在さえも失い欠けていたことへの抵抗だったかもしれない。
仁・咲さんの手紙
しかしながら、一見、やむを得ないのかなと思えていたが、時代を青春時代の70年代くらいまで遡れば、微かだけれども違和感が生まれた。
そこから、様々な現象との思索の戦いが始まった。
芸能問題にとどまらず、政治問題、経済問題などなど、自分の経験を頼りにただひたすら考えた。
そうすることにより、いつか自分なりの駅に到着すると思えた。
もちろん、たまたま読んでくださる人に押しつけるつもりはない。
ただ考えてもらえば十分だった。
そういった意味では、このブログの一つ一つの記事は、結論というより問いかけにすぎない。
その間、昨年12月の衆議院選挙、今年6月の東京都都議選挙、7月の参議院選挙があった。
1992年従軍慰安婦訴訟を提起した福島瑞穂さんは、社民党党首を引責辞任した。
アメリカとの同盟関係から距離を置きアジアに傾いた鳩山由紀夫さんは、民主党を追われるように去った。
菅直人さんは国策を誤ったと批判され、政党政治の本質を誤っているとして党から問責されている。
有田芳生さんは、イデオロギーの強さのあまり、政治活動もままならないような状況になっている。
宗教がらみでは、統一教会の文鮮明氏は死去し、分裂の危機にある。
もちろん、これらの人は、賛否はあるだろうが、何かに立ち向かった人であるし、そういう意味では私のような凡人が語るべきでないかもしれない。
それでも、僕には『失われた20年』を見直せれば十分だったし、桜田淳子さんの功績を将来まで残せればそれで十分だった。
そして、僕は、亡相澤会長のお通夜での桜田淳子さんへの気遣いを見て、歴史に修正力があることを確信した。
桜田淳子さんとともに成長できてよかったと思える自分をここに記しておこうと思う。
追伸 動画のUP主様に感謝します。
桜田淳子さんのブログ記事雑感~昭和アイドル再々考 [桜田淳子]
昨年8月15日『昭和アイドル再考』として、結びにこんなことを書いた。
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芸能界に革命をおこした、桜田淳子と山口百恵を語らなければならない。
しかし、二人の幕引きは、誰の目にも余りに対照的に思える。
山口百恵が神格化したかのごとく扱われるのに対し、桜田淳子は『堕天使』の扱いだ。
仲のよい二人を分けたのは、運命のイタヅラと大人の思惑だったように思う。
現代まで通じる問題を、次回から不定期ではあるが、桜田淳子を中心に考察したいと思う。
(敬称略)
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こんな記事だった。
山口百恵さんは、結婚により引退、松田聖子さんは、未だに歌謡界のトップスターにいる。
酒井法子さんは自らの責めとはいえ、いまでは復帰し歌を歌えるまでになっている。
桜田淳子さんは、恩師の故相澤会長と最後の再会を果たし、芸能界、関係者、ファンに姿を見せ、その存在の大きさを改めて僕らに示してくれた。
僕のこのブログは、果てしなく続くと思っていたが、思いがけなく最終章を迎えることになった。
2013年3月18日
『ブログ記事雑感~なぜ桜田淳子さんの記事を書くのか』
と題して、こんなことを書いた。なぜこんなことを書いたのか未だにわからない。
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僕は、桜田淳子さんという個性を尊重している。
その個性の尊重が、たとえ今の時代の問題点を洗い出そうとするものであるのならば、それでもかまわないと思っている。
これ以上間違えようのない今を思うとき、その気持ちを強くする。
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と書いた。
そして、マインドコントロール問題と、レッテル貼り(ラベリング)に、挑戦した。
中島知子さんの現在進行形の問題に切り込むことは勇気が必要だった。
失敗すれば、このブログを書いた意味をすべてを失うことになる。
そんな、覚悟のことだった。
幸運にも、予測したとおりになった。何かが力をくれたとしか思えない。
それから、桜田淳子さんの登場とTV、スポーツ紙の評価と続く。
一つの事実の前に、すべては書き換えられる。
このブログはすでに役割を終えたと思っている。
これからを予測することは難しい。
しかし、『朝の来ない闇夜はない』
漆黒であれば、夜明けはより目映さを増す。
僕は、そう信じている。
このブログの最後に、桜田淳子さんのご子息、ご令嬢に申し上げたい。
桜田淳子さんの輝きの時代は、多くの人に希望と勇気を与えてくれたことは間違いない。
僕たちは、青春時代を正しく送ることはできたし、十分に満足している。
そのことにはいつまでも感謝している。
このブログの続きを書くことはないし、考察を加えることはない。
それを望んでいる。
追伸
最後に、他のブログ同様、作成に当たっては、多くの方の記事、動画を引用させていただいたことに改めて感謝いたします。
また、様々な不都合により、これらの記事、動画が引用不可能となっても、記事の訂正は行いませんことをご容赦ください。
そして、都合により、ブログの公開を中止することもあります。
ブログ記事雑感~なぜ桜田淳子さんの記事を書くのか [桜田淳子]
私のペンネーム『イワタヤイセタン』でYAHOO検索すると、必ず上位に出てくるブログがある。
このコメントを書いたのが、昨年の7月のことで、次の記事へのコメントだった。
コメントの対象は、有田芳生氏のブログ記事『桜田淳子の芸能界復帰はない』
あのコメントを書いて目的は、桜田淳子さんについての見方を知ることにあった。
今の時代感覚はよくわからないが、僕らの同時代感覚では、違和感だらけだった。
そこで、ブログに書いて自分なりの考えをまとめてみようと思った。
ある程度の分量の記事をまとめることによって、
見えなかった事が見えるようになるだろうし、
見失っていたものが見つけられるようになるかも知れないからだった。
限られた情報を頼りに、仕事の合間を見ては、まとめてきた。
記事の内容は、多分にその時々の勢いを大事にした。
高ぶる高揚感に任せたときもあれば、進まぬ筆の推敲を重ねたこともある。
書いてきたことに矛盾はないし、考えを変えたこともない。
もちろん事実を歪めたこともなければ、隠したこともない。
記事は、読んでいて不愉快になることもあったと思う。
しかし、避けて通ったことはないと思っている。
僕は、桜田淳子さんという個性を尊重している。
その個性の尊重が、たとえ今の時代の問題点を洗い出そうとするものであるのならば、それでもかまわないと思っている。
これ以上間違えようのない今を思うとき、その気持ちを強くする。
しかし、私は、桜田淳子さんの復帰など心底望んではいない。
彼女が復帰したとしても、ジャーナリスト気取りの政治屋や、仮面をかぶったブロガーの餌食になることは目に見えている。
しかも、彼女自身に、当時のきらめきがどこまで残っているかすら懐疑的である。
それでも、ブログを書くことに意味があると思っている。
それは、自分に対するけじめであるとともに、いささか残る正義感によるものだ。
それと、今でも信じる淳子ファンのまじめさに対する敬意であり、少しでも理論的支柱を提供したいからに他ならないし、考えるきっかけを提供できたら幸いである。
正直、ブログを書いても、得など無いのだが、反対論者や否定論者がいる限り、書き続けるのだろうし、復帰を望む声があるのならば、できる限りの露払いをしておくことが、青春時代の心の糧にさせていただいたことへの報いと考えてやまない。
冒頭の、YAHOOの検索結果は、私の動機付けとなっているし、いつまでも初心を忘れないことの証となっていることは間違いない。
雑感的にブログ作成の動機を書き連ねたが、次回は、有田芳生氏への冒頭紹介のブログ記事への現在的感想を予定している。
ブログ作成のきっかけが、この記事ならば、この記事を論破することなしに、先になど進むことなどできないと思っている。
『妖精』と『天使』~アグネスと桜田淳子さん~その心の自由 [桜田淳子]
1972年、日中友好が高まり、その象徴として、中国から2頭のパンダが送られる。
そして、芸能界には一人の妖精がやってきた。
アグネス・チャンである。
彼女は、ミニスカートとハイソックスで、一躍アイドルになる。
そして、友好ムードの中、その愛くるしい歌と、たどたどしい日本語とともに、日本中のお茶の間にやってきた。
それは、9月、『スター誕生』から一人の天才的アイドルが誕生した後のことだった。
日本と中国のアイドルを約束された二人が対決することは、この時から始まっていたのかも知れない。
その時は、1973年訪れる。
4月発売の『妖精の詩』は、僕の心に深く刻まれた。
僕には、妖精に思えた。
この年の2月、桜田淳子さんが、歌手デビューする。
それまで、雑誌や、テレビで予告編的に流される様子が今もおぼろげながら思い起こされる。
そして、『妖精の詩』を挟むように、『天使も夢見る』『天使の初恋』をリリースする。
デビューにして、妖精と天使が、同じステージにたつことになった。
桜田淳子 天使の初恋
当時、僕はどう理解していたのだろう。
正直言うと、絶大な国民的アイドル天地真理、南沙織の時代であり、僕自身もパッケージとしての彼女らが好きだったというほか無い。
しかし、アグネス、淳子さんというスター候補生の活躍、そして、年末に向けての結果的な賞争いを通して、次の時代が予定されていたことは、今更書くまでもない。
そして、天使と妖精は、順調に僕らのこころの糧となっていったと思う。
しかし、この二人、同じアイドルでありながら、タイプが異なるように見受けられるのだが、宗教がらみがささやかれることは、非常に残念なことである。
アメリカではほとんど問題にならない、宗教問題が日本だと大きなウエイトを占める。
文化の違いといってしまえばそれまでだが、教育のあり方も含めて、日本人が考え直さなければならない、心の自由の問題があるような気がする。
そして、現在の日中関係に思うとき、領土問題、歴史認識、など両国の壁は高まるばかりであることを思うとき、政治の無力さを痛感する。
それとともに、芸能を始め、民間レベルでの交流の重要性を感じる。
両国の問題の解決なしに真の繁栄は訪れないのかも知れない。
お互いの欠点を指摘するのではなく、お互いの欠点を認め合う姿勢こそ大事だと思うのだが。
1973年のアグネスと淳子さんの賞レースでの微笑ましい光景が懐かしく思う。
と同時に、彼女らのつないだ友好の架け橋を、大人たちが無駄に消費していないだろうか。
追伸 動画のUP主様に感謝します。
『情報の裏を読む』について~桜田淳子『アイスルジュンバン』 [桜田淳子]
有田芳生氏『情報の裏を読む』というものだ。
読んでみると、桜田淳子さんの著書『アイスルジュンバン』についての、背景についての記事のようである。
有田氏は、共産党に所属し、赤旗が統一協会の商法を霊感商法だと命名した時代から、その論陣を張り、イデオロギー闘争の流れを汲んでいるといっていいと思う。
それだけに、一考に値する、
しかしながら、深読みのような印象を受ける。
『アイスルジュンバン』には、淳子さんが芸能界を追われてからの子育て、育児などのプライベートが書かれているのだが、統一協会のことが書かれていないということに対するのが批判の骨子である。
そもそもこの本は、誰のために書かれたのだろうか。
かつての淳子ファンは、すでに40歳を過ぎ、それなりの分別はもっている。
そんな人にとっては、消息を知れば十分のはずだ。
この記事は、そんな読者をないがしろにしていないか。
それまでのベールに包まれた部分を、本人が語ろうと言うことすら、揶揄しなければならないのだろうか。
この記事を読んで、僕の記憶の中にあったものが、蘇った。
この有田氏こそが、1992年、1993年と桜田淳子バッシングの急先鋒に立って、テレビのワイドショーで、バッシングの論陣を張っていたことを。
運命とは皮肉なものである。
これは、言論のあり方もふくめ、現代まで続く重要な問題を含むので、次回以降、さらに深めたいと思う。
イデオロギーの終焉~桜田淳子はなぜ追い詰められたのか [桜田淳子]
アメリカの社会学の学者でダニエル・ベルが、1960年に著述した。
戦後、科学技術が進歩したことを背景にして、イデオロギーの対立が終焉を迎えるというものだ。
ここで論じられるのは、資本主義と共産主義が中心となる。
先般、あるテレビを見ていて、高校生の子供と話す機会があった。
社会は、現代社会を選択しているのだが、『右寄りの思想、左寄りの思想』といっても、理解してもらえなかった。イデオロギーの系譜を話したが、ピンとこないようだった。
確かに、高校の授業では、受験には何の関係もなく無意味なのかもしれない。
ダニエル・ベルの主張は、現代に生き、その書物は役割を果たしたのかもしれない。
しかし、それは正しい理解なのだろうか。
イデオロギーという原理主義で、現代の複雑な問題の解決を図ることは困難であるが、その理解なくして、問題の解決を図ることは、問題の先送りに過ぎない。
確かに、物事の根本的解決を図ることは立場が異なるものの間では困難なのかも知れない。
しかし、歩み寄ることはできるはずだ。
1980年代、科学技術が進歩して、ダニエル・ベルの説くように資本主義が謳歌され、階級対立は微調整の段階に入ったかに見えた。
資本主義といえども、福祉政策など社会的弱者の救済など、社会主義的諸政策が展開されるにつれ、共産主義はその役割を終えてきた。
そして、ベルリンの壁の崩壊とともに、共産主義が灰燼に帰し、イデオロギーが終焉を迎えたかに思えた。
日本でも、1993年8月、細川内閣の成立をもって、戦後秩序を維持してきた55年体制が崩壊したと位置づけられている。
55年体制を単純に描けば、自民党と社会党、右と左の対立の構図を軸にして、政治の方向性が決定されていく仕組みだ。
イデオロギーの対立構図がそのまま反映されるわかりやすいものだった。
その体制の崩壊は、ダニエル・ベルの予測に基づく、歴史の帰結だったと考えられた。
そして、日本の政治は、資本主義を軸にして、イデオロギーを離れ、政策主義、選挙公約、マニフェストという、概ね、社会契約的な形で展開されるかに見えた。
しかしながら、日本の政治は、そうした公約を忠実には実行されないことがわかってくると、もはや選挙離れとなるのは必定だと思う。それのみか、政治的無関心にさえ感じる。
今の日本に、共通の方向性はあるのだろうか。あるのは、見えない不安と人任せだけではないだろうか。
ダニエル・ベルがイデオロギーの終焉の先に描いたのはそういう世界だったのだろうか。
そこで、多少ではあるが、歴史を紐解いてみよう。
1990年代に入り、敗れた者たちによる反撃が始まる。深く暗く。
一つの例を挙げよう。
ベルリンの壁崩壊まで、統一協会を中心として、国際勝共連合が活発な活動を行う。
それは、西側諸国の政治体制に入り込んでいく。
日本においては、より明確に浸透したと言っていいかもしれない。
1992年、統一協会の合同結婚式がそれまでになく盛大に行われた。
参加者の中に、芸能人がいたことにより、よりクローズアップされた。
山崎さん、桜田さん、徳田さんの三人だった。
山崎さんは、のちのち脱会し、徳田さんは親も公認なので、問題なかった。
ひとり矢表に立たされたのは、桜田淳子さんだった。
賛否をめぐっては、有識者も含め様々な意見があった。
大きく分けると、資本主義、自由主義の人からは同情を得るも、共産主義の人からは否定される、という傾向があった。まさにイデオロギーの屈折した攻防がそこにあった。
そのあまりに滑稽な攻防に嫌気をさしたのか、有識者たちはこの議論を離れ、最後までバッシングをした芸能マスコミによる勝利となった。
その急先鋒たる本を紹介する。
著者の有田芳生さんと江川紹子さんが、長い年月をかけて追求された成果がある。
こうして、桜田淳子さんは、自らの行為とは別次元で、イデオロギーの犠牲となり、芸能界の仕事を失っていた。
歌、踊りという芸能一筋の彼女の不本意とするところであったに違いない。
このイデオロギーに拘泥する時代はいつ終わるのかと思う。
学問的成果が無駄にされた悲しむべき20年だと思う。
だからといって、日本社会において、統一協会の考え方は受け入れられない。
それは、霊感商法云々とかではなく、日本人の尊厳と、勤労の成果である金品が奪われることにある。そのために、日本の青年、女性が駆り出されることにある。
そこに見え隠れするのは、宗教に名を借りた資金集めであり、朝鮮半島の統一ということではないだろうか。
この粗末なブログで、それ以上敷衍するつもりはない
このブログの目的の一つは、失われた20年の追跡にあり、その中で、なぜに、桜田淳子が、この騒動に巻き込まれたのか、を探ることにあるのだから。
建国記念日にあたり、改めてこの20年の意味を問いたい。
そして、健全で平和な日本であることを望む。
昭和のアイドル考察ー正統派の意味 [桜田淳子]
そういえば、40年前の1972年正常化の証として、中国より2頭のパンダが贈られた。
カンカン(康康、雄)とランラン(蘭蘭、雌)の人気は凄かった。
一般公開は11月だったと思う。
朝日新聞の見出しは「2時間並んで見物50秒」。立ち止まることが許されないほどの混雑だった。
あれから、40年様変わりしたものだと思う。
1972年11月といえば、アグネスチャンが日本で歌手デビューする。
『ひなげしの花』だった。
当初の衣裳はロングであったが、73年よりミニスカートに変えて人気が急上昇した。
だからだろう、アグネスが、翌年の新人賞候補になっているのは。
ともかくも、友好ムードは別にしても、その人気は高かった。
レコード売り上げでは、ダントツトップなのだから。
しかも、1973年7月発売の「草原の輝き」が大ヒット、10月発売の「小さな恋の物語」が自身最大のヒット曲となり、オリコン1位を獲得している。
当時、数字を重視する風潮がどこまであったかわからないが、実績なら文句なしの最優秀新人賞だった。
ハンデキャップの中、国内組が追う展開となる。
その年の新人賞争いは、熾烈を極めたことは間違いない。
73年2月14日、浅田美代子は『時間ですよ』(第3シリーズ)のお手伝い役でデビュー。
国民的な高視聴率番組のもと、たちまち人気を集める。
また劇中歌でデビュー曲の『赤い風船』は、1年で50万枚近くを売り上げオリコンの年間セールス10位の大ヒットで、この年の新人歌手のシングルでは最大のヒットを飛ばす。
73年7月、安西マリアは、『涙の太陽』を大ヒットさせ、その独特なフィンガーアクションはよくものまねされていた記憶がある。
73年5月25日、あべ静江は、“フリージアの香り”のキャッチフレーズで、キャニオンレコードから「コーヒーショップで」でデビュー。デビュー曲はオリコンでベスト10内にランクされ、またシングル売上約28万枚を記録する自身最大のヒット曲となり、9月25日の「みずいろの手紙」も大ヒットした。
2月25日、桜田淳子は『天使も夢みる』で歌手デビューし、『天使の初恋』『わたしの青い鳥』『花物語』とコンスタントにヒットを飛ばした。
この5人、いずれも実績に申し分はない。
他にも、山口百恵がいる。なぜ選ばれなかったかは不明だが、所属の事務所の力関係ではないと思う。あるとするなら、レコード会社のバランスかもしれない。山口百恵の所属するCBSソニーには、50万枚を超えるセールスをした浅田美代子がいたからだろうと思う。
五人の顔ぶれを見ると、見事にレコード会社で色分けされている。
こう考えたくはないのだが、レコード大賞という冠からすれば、当然かもしれない。
しかし、レコード会社の思惑、所属プロダクションの思惑もこの5人のステージに選ばれるところまでだと思う。
この5人から一人を選ぶ作業こそが、このレコード大賞が大晦日に行われる意味だった。
だれが選ばれるか、だれも予測ができなかったと思う。
ちまたのうわさでは、アグネスと桜田淳子に絞られていたのだが。
では、なぜ、最優秀新人賞は、桜田淳子だったのか。
これをなぞだとする声は当時からあった。
レコード売上げを根拠に上げ、おかしいという人がいる。
しかし、そうだろうか。
最優秀新人賞とは、何なのか。
レコード大賞のミニチュアなのか。それとも番組のお飾りなのか。
いや違う。それはこれからの時代を映すものでなければならなかったと思う。
レコード大賞の審査員達がどういう思いを持っていたか、想像するしかないが、新人に託する夢こそが、審査員の思いではなったか。
当時、テレビの主役は天地真理だった。低年齢層から、高齢者までの幅広い人気を持つ国民的アイドルだった。
しかし、当時21歳、人気にかげりも見えはじめるといっていい。
また、これから需要が増えるティーンエイジャを開拓するには訴求力のある個性が求められる。
カラーテレビの精度が高まるにつれ、新鮮さ、はつらつとした光景がより鮮明に描き出される。
それに見合うものでなければならない。
審査員は、間違いなく天地真理の後継者を求めたといっていい。
それは、翌年の紅白歌合戦で証明される。切ないというより息苦しく歌う『思い出のセレナーデ』と、山口百恵さん森昌子さんをバックにハツラツと歌う『黄色いリボン』と見た目にも好対照だった。
しかし、レコード大賞の審査員達が求めたのはそれだけだろうか。
アイドルは、若年層のシンボルと位置づけていいと思う。
願わくば、青少年を健全な方向に向けるものであって欲しいと思うのが道理ではないかと思う。
ファンは少なくとも、アイドルの一挙手一投足に影響を受けるものだ。
審査員たちは、ハツラツとした中にも伝統的な価値観を持つ一途な桜田淳子にその未来を託したように思える。
その桜田淳子は、79年のNHK『ビックショー』でのMCで、大学入学とともにファンを卒業する人の手紙を紹介し、『青春時代のお役に立てたことで十分幸せです』と返している。
当時としては、紹介は奇異なものだったが、アイドルの使命を終えつつあること知っていたのであろう。
アイドルのトップにいることが、いかに大変なものかを知る人は限られている。
そして、その椅子には常に誰かが座らなければならない。
それが、アイドルの正統派の持つ意味なのだろう。
レコード大賞の審査員たちの判断は正しかったのではないだろうか。
桜田淳子という存在~攻防の光と陰 [桜田淳子]
大衆文化への移行期ではないかと思う。
流通業界が、30年戦争に突中、消費者というものが、色濃く出てくる。
それは、芸能界においても同じような波として訪れた。
まず、この時代というものを、ある番組をとおして紐解いてみたい。
1970年2月、『時間ですよ』という人気ドラマがスタートした。
主演は森光子、他には、堺正章や悠木千帆(後の樹木希林)らが出演し、天地真理、浅田美代子らの出世作にもなった。伝説の番組だ。
この、番組は白黒の番組としてスタートをきった。
まだ、国民が買えるのは、白黒テレビが主流だったことも影響しているのだろう。
私の家は、アポロ11号の月面着陸をカラーテレビで見たので、少しは進んでいたせいか、白黒番組はどちらかというと見なかった。
それでも、お色気シーンがあったので、この番組はよく見ていた。この番組は子供が見れる女性の裸の限界だったかもしれない。
1971年7月から、『時間ですよ』はカラー番組となる。そして、天地真理が起用され、国民的アイドルへと成長していく。
1973年2月からは、浅田美代子が登場し、やはり国民的アイドルとなる。
この番組から生まれたヒット曲が、浅田美代子「赤い風船」 、堺正章「街の灯り」である。いずれも心に残る名曲だと思う。
1969年に、日本は世界でカラーテレビ生産第1位国になるものの、1970年にアメリカにダンピング認定を受け、日本でも二重価格への消費者運動あり、カラーテレビの価格が下がった影響もあり、73年には、カラーテレビの普及率が、白黒テレビを上回るようになった。
しかし、さらなるテレビの販売を高めるには、映像の精度を高めなければならない。
『時間ですよ』は、そんなカラーテレビ時代の移行期を映し出すものとしては興味深い。
そのような時代背景の中、放送業界の使命として、いかにカラーテレビに見合う番組作りをするかにあったといえよう。
そのためには、よりビジュアルなものが求められる。
白黒テレビに映し出される映像は、やはり、ラジオの延長線上で、それまで、アナウンサが実況放送していた部分を映像で補完するようなものだったように思う。
事実、白黒テレビで出演者の顔の表情の変化まで映し出すことには限界がある。
テレビ局としては、カラーテレビに相応しい、芸能人をもとめるのは必然だった。
カラーとなった『時間ですよ』から、天地真理が生まれ、浅田美代子が生まれたのは余りにも当然過ぎたのかもしれない。
そして、テレビ局は独自のオーディション番組をつくり、あらたな可能性を発掘していく。
その代表が、1971年10月スタートの『スター誕生』だった。
それでも、芸能界の敷居は高かった。
ナベプロの一極支配のもとでは、視聴者といえども、おいそれとオーディションに参加するには抵抗があり、森昌子のような聴かせるタイプが主流であった。
カラーテレビでなくてもよかったのかもしれない。
そんな中、翌年72年7月、新たな才能が登場する。
それはテレビ関係者からみて、カラーテレビ時代のビジュアルの主役になれる逸材だった。
阿久 悠さんの表現を借りれば、『蛍光灯の淡い光』に包まれたような存在だった。
それが、一人の14歳の少女の運命を決定した。
桜田淳子という存在を、目撃したことにより、状況は一変したといっていい。
『スター誕生』という番組への関心度は高まり、番組の目的は『第二の桜田淳子』を探し始め、応募者は殺到した。
山口百恵さんもその一人だ。12月の決戦大会で準優勝にとどまっている。それでも、20社のスカウト陣の目を引き付けた。
そこには『第二の桜田淳子』を見たのだ。
桜田淳子は、デビュー前にして、関係者を色めき立たせた。
そして73年2月25日歌手デビューした。
桜田淳子は、各テレビ局独自のオーディションでもその評価は1番だった。それは、番組出演への優先枠を意味する。その才能は、当時芸能界のナベプロにも影響を与えた。
刺激を受けたナベプロは、1973年4月より独自にオーディション番組『スター・オン・ステージ あなたならOK!』をNETテレビ(現・テレビ朝日)で放送を開始する。
しかし、『あなたならOK!』の放送日時となった月曜日の夜8時という時間帯は日本テレビがナベプロの歌手も出演していた『紅白歌のベストテン』を放送していたため、ナベプロは『紅白歌のベストテン』からの撤退を決定。
そこで、ナベプロと日本テレビは全面対決となる。流通革命と同じ構図だ。
チャネルの主導権争いなのだ。握るのは、供給者なのか、媒体なのか。
勝敗を分けたのは、ファンの目線だった。
『スター誕生』出身として、前年の森昌子、その年2月の桜田淳子のみならず、5月21日山口百恵も歌手デビューし、その後も番組には魅力的スター候補生が登場した。
もはや、旧態依然とした帝国には芸能界の流れ、勢いはとめる事はできない。『あなたならOK!』はその年の9月で番組を終了する。
それでも、ナベプロには道があった。
その年の新人賞レースは熾烈だった。
カラーテレビ時代の『華』を求める戦いといっていい。
ナベプロの望みは、香港出身の『アグネス』だったのかもしれない。
そして、次なる攻防が続けられるのだが、攻防の歴史の果てに傷つく者があることを、この時代人たちは予測しただろうか。
追伸 カラーテレビの販売には、映像コンテンツの魅力は欠かせない。
ビクターは桜田淳子も求め、ソニーは山口百恵を求めたことは興味深い。
桜田淳子はなぜ生まれたのかー攻防の光と影 [桜田淳子]
まづは、次の記事を紹介したい。
Wikipedia 『中内功』より
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1964年、松下電器産業とテレビの値引き販売をめぐって『ダイエー・松下戦争』が勃発した。
松下電器が仕入れ先の締め付けを行い、ダイエーへの商品供給ルートの停止でダイエーに対抗した。
この時の松下幸之助の考えは「儲けるには高く売ることだ。
今後、高い水準に小売価格を設定するので、これを守りなさい。安売り店への出荷は停止する」であった。
1970年、メーカーの二重価格の撤廃を求める消費者団体が、強硬姿勢を崩さない松下に対して松下製品の不買運動も決議した。
同年に、公正取引委員会が二重価格問題に対して、「メーカー(松下側)に不当表示の疑いあり」という結論を出している。
松下幸之助は、1975年に中内を京都の真々庵に招いて、「もう覇道はやめて、王道を歩むことを考えたらどうか」と諭したが、中内は応じなかった[11]。
その後、約30年後の1994年に最後は松下電器が折れる形で完全和解となった。
この対立は「30年戦争」とも呼ばれた。
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松下電器産業といえば、製造業の雄である。
松下氏の経営手腕は、戦後復興の鏡であり。まさに経営の神様と呼ぶにふさわしい。以前、このブログでも紹介させていただいたが、偉大な一人である。
その製造業主導の流通過程にくさびを打ち込んだ男がいる。
中内功氏だ。かれも復員兵で戦争を体で体験した人だ。
戦後は、スーパーを中心として、流通業の発展に貢献した偉人だろう。
この二人が、製品(商品)の価格決定権をめぐって争ったのが、上記の記事だ。
偉人の業績に口出しするつもりは毛頭ない。どちらも正しい。勝敗は時代が判断するものである。
その歴史の流れという意味では、戦後体制は徐々に失われ、生活の端々に自由主義秩序が浸透しつつあった。
その流れから、自由競争、価格破壊は時代の流れだったということだろう。
価格競争は、需要と供給のバランスにより成り立ち決定されるいう『レッセフェール』により、決まるのは経済原則だ。そこでの主役は、製造者から消費者に移ることになる。
為替相場とて、1971年8月15日ニクソンショックを経て、1973年主要国が変動相場制に移行し、その後1976年1月、IMF(国際通貨基金)暫定委員会で、変動相場制が正式に承認された。
ここでの自由化とは、神(ユーザー)の意思に委ねられることを意味する。
固定から変動への時代、ストックからフロへの幕開けというべきだった。
芸能界はどうだったのだろうか。
渡辺プロダクションを圧倒的頂点として、芸能プロダクションが取り仕切る世界だった。
産業界における製造者のような供給者側の論理が通用する世界といっても過言ではなかった。
しかしながら、メディア(媒体)のなかで、カラーテレビの普及にともない、徐々に放送業界の特色が色濃く出る必然が生まれてくる。
それは、流通業界と同じだ。
その共通点は、消費者、視聴者に近いということだ。
マーケティング理論として、消費者動向をさぐるのは、もう少し時代を重ねなければならないだろうが、ともかくも、感覚としての消費者のニーズを感じていたのが、こうした現場だったのだろう。
その芸能界で、それまでの因習を打ち破る出来事があった。
1971年10月、画期的番組が生まれた。
『スター誕生』である。この番組の特徴は、視聴者参加型オーデション番組であり、スターを発掘する過程に視聴者が参加するということである。
もちろん、参加するのも、素人の視聴者の代表なのだろう。
リンカーンの言葉を借りれば、『ファンの、ファンによる、ファンのための』番組が出現する。しかも、ブラウン管という透明性の高い中で行われる。
その中で、1972年、この番組に桜田淳子が登場する。
1972年7月9日の秋田での予選会、7月19日の秋田県民会館での秋田大会と圧倒的に選ばれてきた(番組放映は8月6日)。
この時期から、『スター誕生』への関心が急速に高まり、視聴率が上がってきた。
7月の森昌子の番組からの第一号デビューと相まり、必然的に番組のクオリティも高くなってきたようである。
そして、9月6日、決戦大会にて、25社という番組最高の獲得の名乗りをうけ、新しいスターの登場が宣言された。
この出来事は、流通革命にも似た、テレビメディアが主導し、視聴者(ファン)が参加する開かれた形態への移行が宣言されることを意味する。
しかし、道は始まったばかり。流通革命には30年を要した。
同じことは、このドラマチックな芸能界の出来事にもいえる。
一進一退の攻防で、傷ついたのはだれか。この時期誰も知る由もない。
しかし、戦いの火蓋は切って落とされた。
この時期関係者はどう思ったのだろうか。
桜田本人は歌手になる喜びと不安に満ち、
テレビ業界は、テレビメディア主導の新しい時代に高鳴る鼓動を抑えきれず、
仕掛け人の一人阿久悠さんは歴史を作り上げる喜びを感じていたに違いない。
王者の渡辺プロダクションはどう思い、サンミュージックは、ホリプロダクションはどう感じたのだろうか。
様々な思いが交錯する時代の到来だったかもしれない。
いずれにしても、テレビという媒体を通じて放送業界が挑んだこの革命の成否は、この時、若干14歳の桜田淳子の小さな双肩に託されることになる。
ファン主導の時代の幕開けというべきである。