流されはしなかった~最終章 [桜田淳子]
最近、古本屋で、山口百恵さんの『蒼い時』を、偶然発見した。
内容は、概ねわかっていたつもりだが、読むのは初めてだった。
誰しもが抱える心の葛藤など、読む必要はないと思っていたのが、本音のところだ。
しかしながら、山口百恵さんの特殊な境遇を割り引くとしても、『蒼い時』が、華やかな芸能界にいて、トップアイドルの内面を自ら描いたものであるように、僕は、桜田淳子さんのファンとして、ささやかなわだかまりを書くべき時が来たように思う。
高校に進学してすぐのことだった。
『スプーン一杯の幸せ』を観た後、帰りに長いアーケード街にある大きめの本屋で、同名のエッセイを立ち読みしたが、結局買ったのは、大柄な僕とは不釣り合いとも思える可愛い挿し絵の入った詩集だった。
小さな詩集をカバンに押し込むと、長いアーケードの閉まりかけた商店街を抜け出し、電車通りで、バスを待った。
その時だった。
突然アンケートを求められた。
学生服に身を包んだ僕は、バス待ちの暇潰しに応じたが、その後、もう少し話をしたいと言うので、連れ出された。
間口の狭いある民家に行ったところ、そこには、数人の男女がいた。
僕は、背中を押されるように中に入った。
その後、徐々に人は増え、狭い空間は所狭しとなり、やがて意味不明な問答が始まった。
ひ弱に思える彼らを見て、取り囲まれても不安には思わなかったが、だんだん面倒くさく不快に思ったものの、人並みをかき分け狭い間口を外に出ることは不可能だった。
僕は、観念して応じたが、もともと頑固な性格が、この場面は幸いしたのだろう。
2時間位で、僕は解放され、下宿に帰った。
大学生の頃だった。
友人が、『原理研に入ると、桜田淳子に会えるかもよ』というようなことを言ってきた。
原理研って、イスラム教か何かかと聞いたことと、キリスト教ぽいということ、気の弱そうな数人の同好会だったという返事だけは、覚えている。
そして、そんな訳ないだろうということでその場は終わった。
その友人からは、コマ劇場のミュージカルを誘われたり、Misskissは好きだが、ミスティはどうもねぇという話やら、石野真子の親衛隊には、桜田淳子の元親衛隊が多いという話やら、当時としては、たわいもない話を聞かされた。
社会人になってしばらくしてからのことだった。
上司が営業マンから貰ったとかで試飲用の『メッコール』を持ってきて、感想を聞いてきた。そして、『オーロラの下で』の映画観賞券をくれた。
僕は、ドキドキしながら、晴海通りの下にある銀座の映画館に行った。
それから、翌々年の2月のことだった。
家内が週刊誌を読んでいたので、偶然のぞき見したが、統一教会の文鮮明氏が特例で来日するような記事が書いてあった。それが発端だった。
統一協会という名前を知ったのは、実はその時が最初だったといっていいと思う。
オウム真理教やその他の新興宗教が話題になることはあったが、その類の些細なことだった。
数か月後、朝、出勤間際に、家内が桜田淳子さんの記者会見のニュースを知らせてきた。
僕にとっては、相手は、芸能人かスポーツ選手か、または実業家か、いづれにしても、おめでたいことぐらいにしか思わなかった。
家内の方が、情報に詳しく、それがお目出度くないのよというようなことをいっていた。
僕は、毎日毎日、残業やら早出やらで、ろくにテレビを見る暇もなく、時折、電車に下がる広告を眺める程度で、特段感想もわかなかった。
しかし、桜田淳子さんが、幸せになることは疑いをもたなかった。それは、中学以来から積み重ねられた記憶の集積によるものだったのだろう。
これらは、全て、一過性の、たわいもない記憶に過ぎないはずだった。
しかし、今から4年半前、偶然YouTubeで、桜田淳子さんを見つけ、興味を持って調べてみると、とんでもないことになっていることに、たじろいだ。
淳子さんは、幸せになれなかったのではないか。
そう思い始めると、いてもたってもいられなくなった。
そして、色々な過去の記憶が、断片化され、万華鏡の様に組み合わせを変えながら、青春時代のポジティブな淡い思い出が、ネガティブなものに変質していく怒りを覚えた。
そして、ブログを書くことにした。
最初、否定的なことが頭をよぎり、思考を好転させることができなかった。
紆余曲折の末、たどり着いた答えは、霊感商法でも、マインドコントロールでもなく、イデオロギー問題だということに気付いた。
問題の全ては、そうでなければ困ると考える人たちのロジックにすぎない。
左派的な思考を抜けられないコメンテーターや弁護士、国会議員。
そして、1992年の合同結婚式に端を発した、バッシング騒動は、多くの誇張を伴った。
それは、憲法の条文を踏まえるまでもなく、現代の人権感覚では当然だと思われた精神的自由に踏み込む異様なものだった。
桜田淳子さんの『声の手紙』で、人の『良心』に触れられている。
そこでは、文字通り『良い心』という意味で、秋田を離れるときの、友達の苦言が紹介されている。それを聞きながら、ふと考えた。
法律の世界では、『良心』は、道徳的な意味は含まない。むしろ『内心』といった方がいいのかもしれない。
『良心の自由』の意味するところは、踏み絵を踏ませて、人の内心を測ることはできないということではないか。
しかし、結果的に『合同結婚式』は、桜田淳子さんが、芸能界に残るかどうかの踏み絵となってしまった。
江戸時代の踏み絵で、人の生死を決めるのを、残酷だと思う我々だが、『合同結婚式』参加で、人を評価してしまったことを、将来の人は、どう考えるのだろうか。
道徳的な意味でも、法律的な意味でも、人の『良心』が尊いことは、同じだと思う。
昨年暮れ放送の『伝説の芸能60年史』の桜田淳子さんの正直な受け答えを見て思うことは、もっと違った解決はできなかったかということだ。
それでも、淳子さんは、周囲の反対を押しきり、ご主人と船出した。
文字通り、自分を貫いた。
前回紹介の『淳子さんの講演』を読んで感じたことが三つある。
一つ目は、最初、無名の統一協会のシンボルとして、淳子さんの芸能活動を妨げないよう、それは『公然の秘密』として、形式的に入会していたにすぎないのではないか。
二つ目は、合同結婚式参加が踏み絵となり、結果的に『恨』を持つことで、心の闇を探すようになったのではないか。
三つ目は、淳子さんが『恨』を克服したとある。
それならば、もはや、旧統一協会に留まる必要はないのではないか。
そんなことさえ思えてしまう。
ただ一つ言えることは、淳子さんは、ご主人とともに、川の流れに流されず、昇りきられたことは間違いないだろう。
動画のUP主様に感謝します。
本文の全ての文責は、イワタヤイセタンに存します。
君が君であるために [桜田淳子]
時が戻るとは思わないし、それが正しいとも思わない。
前に進むことのみが可能な選択肢だ。
昨年暮れも押し詰まって、日本と韓国で、従軍慰安婦問題が妥結に至った。
外交決着を図ったというのが正直なところだろう。
従軍慰安婦問題は、戦争責任でも、歴史認識問題でも、人権問題でもないのではないか。
妥結という事実から、演繹的に考えれば、本当の問題点も見えてくると思う。
韓国では、大国に囲まれているという地理的要因が大きく作用する。
周辺国の戦略的な要衝ということになる。
韓国の経済面は中国への依存は否定できないが、安全保障面ではアメリカの、通貨問題では日本への依存が大きい。
中国がアジアの覇権をめざしていることは、決して悪いことではない。
しかし、そうするには、時代が進みすぎた。
第二次世界大戦の教訓は、植民地政策ではなく、民族自決を促した。
そうした自由主義的精神のもとでは、古代史的レベルの繁栄や復活を謳い上げることより、自由で対等なパートナーシップが求められるのは自明ではないだろうか。
そうした危機感を共有しつつ、昨年、環太平洋パートナーシップは締結された。
それは、くしくも中国の海洋進出を阻む形で形成された。
中国の経済減速が顕在化しつつある今、韓国政府は新たなバランスを求めるだろう。
それは、戦略防衛としての『THAAD』の導入であり、経済対策としての、『TPP』への参加であり、通貨危機への備えとしての『日韓通貨スワップ』ということになる。
アメリカの利上げなどの影響もあり、限られた選択肢の中で、従軍慰安婦問題が妥結されたとみるのが自然な流れだと思う。
韓国政府の負担が大きい妥結だったということはだれの目にも明らかだろう。
日本は、10億円負担するが、それは、『TPP』へのアドバンテージからすれば、将来的にはペイできる。
同様の流れは、台湾の総統選挙にもあてはまる。
一言で言うなら、価値観外交の勝利ということになる。
ここまで来たことに水を差すわけではないが、それは根本的な解決ではないことを記憶しておくことが大事だと思う。
慰安婦の存在を否定するものではないが、植民地の人にとって、内国人は金があり、それは、一種の羨望の対象だったことや、金銭目当ての過剰なサービスが存在したことも、台湾の国鉄に勤務した経験のある父が、戦後しばらくたって宴会の席で話していたことは記憶している。
日本が戦争に敗れ、占領下でGHQのジープに群がる子供がチョコレートを求めたことも、アメリカの基地の周囲には、家計を支えようと女性たちが集まっていたことも、生きのびるためにやむを得なかったことだと理解している。
何より、そうしたもろもろがバネになり、今の日本を作ってきたことの方が重要だと思う。
今大事なのは、事実がどうかではなく、韓国での従軍慰安婦の人たちの安らかな老後を静かに見守ることだろう。
歴史の表舞台に引きずり出した、当時のマスコミの無能さにはあきれるばかりだが、それを政治利用した団体、政治家の言行こそが否定されるべきことではないか。
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最近、あるブログを読ませていただいた。
『 秀のブログ 淳子さんの講和 』と題するものだった。
Hydenoshikou.kakuren-bo.com/entry/85/
まず、この文章が東淳子さんの言葉をどこまで忠実に再現しているものかは、もちろん、私には検証することができない。
その上、敷衍することがどういう意味を持つかも考えなければならない。
『淳子さんの講演』を読み、最初戸惑ったが、背景と絡めると読み解けてきた。
それが、正しいかどうかは、将来に託さなければならないのだが、少し書いておきたいことがある。
『自らが天国をつくる者』と題するこの講演の、キーワードは『恨』ということではないだろうか。
( 恐らく、講演者はこれを『ハン』と読まれたのだと思う。)
講演者は、21年以上前のことを、許し、そして自ら謝ることにより、苦しみから解放されたと語られている。
講演者の言葉を借りれば、
『人生最大のテーマは人を許すということではないでしょうか。人を許さねば、人から許されないのです。』
棺の前で『来ましたよ』と優しく語りかけたのはそういうことだったのだろう。
確かにあの時の表情には、かつての面影があったし、心落ち着くものがあった。
昨年12月暮れに放送された、『伝説の芸能60年史』では、1992年当時の報道の過熱ぶりが思い起こされた。
何のために報道しているのか。
当時の芸能レポーターの述懐により、くしくも報道することが自己目的化したことがうかがえる。
報道者の反省の意味も込めて放送されたこの番組を見て、本稿を書くことにした。
この講演文を読んで思ったことは、山あり谷ありの中でも、信じる人と寄り添われたこと、心の痛みを分かち合われたこと、そして、変わってはいないこと、が嬉しく思えた。
僕が僕であるために
『ハン』はもちろん朝鮮の人にとっては、考え方の体系の中で核心的なものだということをわきまえなければならないのではないか。
日本での『ウラミ』は、晴れることはあるが、朝鮮での『ハン』にはそうなることは予定されていない。
韓国の『恨の文化』に対し、日本は『和の文化』という対比ができよう。
聖徳太子の17条の憲法の第1条がくしくもこのことを表現している。
『和を以って尊しとなす』
その時代、大陸から多くの文化が伝来したとき、考え方の防波堤にした。
私には、『恨の文化』を正しく理解することはできないが、文化の違いを誇張することなく、違いを尊重し、胸深く鎮めることができればと思う。
前出の講演において、『恨』をもつことが、苦しみの原因だったことが書かれているが、歩み寄ることによりそれは可能だと、講演で、語りたかったのだろう。そうしたことが、本部から地方に伝わり、正常化することを願うばかりである。
それこそが、『天国』つまりは隣人として住みやすくなるということなのだろう。
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今年になって『週刊現代』で、桜田淳子さんの特集など組まれた。
手にして、懐かしい写真を目にしたが、そこには淳子さんのコメントがあり、『楽』しんでと、書かれていたことが、胸に刺さった。
桜田淳子さんは、人を楽しませることが本当に好きだったんだ。
それだけに、芸能界から、身を引いた当時のことが、なおのこと思い起こされて仕方がない。
追伸 動画のUP主様に感謝します。
永遠のもっと果てまで [桜田淳子]
『淳子は幸せになれるのか』
1992年9月頃のワイドショーの見出しだった。
もちろん、番組内容は、世相を反映しての賛否両論だったに相違ない。
これ以降、次第に批判の声は強まっていく。
この年の6月、僕は、早朝のテレビを、出勤前の慌ただしさの中で垣間見た。
『一度決めたことは、覆らないだろう』
これが、その時、僕の秘められた率直な思いだった。
そして、桜田淳子さんが不幸せになることなど、僕の思考外のことだったと言って良かった。
そして、オセロゲームのように、世の中の風潮が白から黒に変わっていっても、考えは変わらなかった。
ただ、年月が事実を風化していったのみだった。
今から3年前の4月、スマートフォンを手にした。
物珍しさから、子供に教えられるまま動画サイトを検索してみた。
恐る恐る『天地真理』と入力し、懐かしさがこみ上げてきた。
何気なく、関連する動画を見てみると、紅白歌合戦での『黄色いリボン』が目に飛び込んだ。
今、どうしているんだろう。
そう思ったことが巡り合わせだった。
ネット検索して飛びこんできたのは、目を覆いたくなる記事の連続だった。
しかしながら、そんな記事の中から、当時を過ごした人と、それ以降の人を分けるのはそれほど難しいことではなかった。
私は、それ以後、時折、このようなネット社会を覗くことは出来たが、参加する気など無かった。
参加しても、勝ち目など無いと思っていたし、それは私の仕事ではないと思っていたからだった。
それからは、所詮、ネットの世界のことだと割り切ろうとしていた。
6月頃だろうか、NHKテレビで、『ミュージック ポートレイト』と言う番組を見た。
松田聖子さんが出ており、何となく見ていたら、聖子さんに影響を与えた曲と言うことで、『気まぐれヴィーナス』が紹介された。
しかし、聖子さんの口から、『桜田淳子』という言葉は聞かれなかった。
画面に流れたのは、藤井隆さんの顔まねだった。
それが、現実だった。
何かがおかしい。
7月に入って、ある人のブログにコメントしてみた。
広大なネット社会に住む人に意見をぶつけてみたが、到底、満足を得る答えはなかった。
数回コメントを繰り返す打ちに、私の心の中に怒りがこみ上げてきて、それがどうしようも無い振幅となったとき、いつしかブログを書くようになった。
最初は、桜田淳子さんへの思いを記すことにした。
忘れていた記憶を1日1個思い出そうとした。
そしてあることに集中力を高めた。
当時、民主党の政権時代であり、日本の国力が疲弊し、国際的地位も低下して、これまでに無い最低な時代だった。
日韓の竹島領土問題、慰安婦問題、日中の尖閣問題、歴史認識問題が、目に見える形で吹き荒れ始めた。
これが、『失われた20年』の実像だった。
これから日本が回復に反転する可能性があるとするならば、その波に乗せてあげたい。
そう思い始めた。
しかし、それは、今となっては、必要なかった。
『マインドコントロール』という言葉も根拠のない宙に浮いたものとなり、『霊感商法』は被害額を確定できず『消費者センタへの相談金額』という不定の金額しか提示し得ない。
そうすると、行きつくところ、『イデオロギー問題』に帰結する。
イデオロギーに、善悪はつけられない。
時代により優劣が決まる。
所詮そうしたものだ。
残念ながら、1992年、桜田淳子さんは、時代という波のなかで、芸能界を離れた。
でも、時代の犠牲となったのではない。
時代に振り回されたのは、僕らの方だった。
2013年11月、桜田淳子さんは博品館劇場での『Thanks40』で、多くのファンに囲まれて、『幸せな1日』だと語ってくれた。
淳子さんは幸せであり、取り残されたファンのことだけが彼女の気がかりだったということがわかった。
『スター・ウォーズ』が間もなく封切りとなるが、アナキンが、ダースベーダーに化身させたのは、『怒り』だった。
怒りが思いもかけないパワーをうむ。
多くの淳子ファンの『怒り』が、永い時を超え、結実したのかもしれない。
そして、『再会』とともに、その怒りが過度に増幅することもなく、『静かな喜び』となった。
昨年、6月だっただろうか、『サワコの朝』だったと思うが、松田聖子さんが、ゲストで登場し、桜田淳子さんの『気まぐれヴィーナス』を紹介してくれた。
僕には十分すぎる喜びとなった。
その後も、多くの人の口から淳子さんのことが語られる。
先日は、アグネスの口からも語られた。
統一協会問題についても、最近、古参の幹部の更迭や、統一協会という名前の変更など、組織改革が進んでいると聞く。
過去のマイナスの風聞が改善されるとすれば、それを見守る必要があるのではないだろうか。
日本人の宗教観は独特で、多神教であり、宗教に対して包容力があると思う。
11月に入って、日本、中国、韓国の複合的な会談が、開催された。
思い起こせば、このブログは、日中韓について多くのスペースを割いてきた。
歴史問題、領土問題は、国力と関係する。
国力を上げることが、解決を早まることは自明であろう。
異論はあろうが、解決策の一つとして、自衛権の拡大、価値観まで拡大した形での妥結となった『TPP』が、この問題への解決を早めることになるのだろう。
これからは、『怒り』を解いて、冷静に問題解決を図ることが必要となる。
『怒り』は、力を生むが、解決には至らず、新たな問題を生みだす。
戦前の日本の轍を踏むことなく、妥当な運用が必要になると思う。
憲法違反だという声があり、方や、憲法改正だという声がある。
いずれも極端であり、違和感がある。
憲法が目指す平和な国にするのは、人による冷静な判断に他ならない。
私は、日本人がこれまで培ってきたバランス精神こそが試されるのではないかと思う。
良くも悪くも、経験を財産にして工夫をする『いなしの知恵』とは、そういうものではないか。
20年以上の時を経て、桜田淳子さんの楽曲を聴くのが再び楽しみになってきた。
今なら、自分自身のパズルの最後のピースを見つけられるかもしれない。
桜田淳子 忘れな草の伝説 [桜田淳子]
『失われた20年』とは、何だったのか。
このブログの記事の一つ一つは、この事へのアプローチに多くを費やしてきた。
行きつくところ、この事に凝縮しているのかもしれない。
自分自身、1991年、92年、93年と慌ただしい時を過ごし、冷静な判断ができないまま、時の流れに身を任せたというのが正直なところだろう。
この間の経緯については、これまで書いてきたが、いつの日かもう少し丁寧に書いた方がいいのかもしれない。
しかし、もう少し、これからの推移を見ようと思う。
『わすれな草』という青いかわいい花がある。
この花に託された悲しくもせつないが、けなげな伝説があるという。
伝説では、兵士は、恋人に花を贈ろうと川に入る。
そのうち、濁流となり、水は兵士を飲み込む。
覚悟を決めた兵士は、花を恋人の元に投げ、流される。
こんな話だそうだ。
1990年代初頭に、大きな『時代』といううねりがあり、価値観が変わってきた。
私は、これまで、時代という大きなうねりの中で、桜田淳子さんの評価が非常に過小に評価されていたと言う風にとらえていたのかもしれない。
それは、1970年代は数々のヒット曲を重ね、1980年代は数々の舞台を踏み、賞を受けたことだけでも、特筆すべき事だったのに、それが無きものにされていたことが不思議だった。
あるいは、芸能活動のわずか数パーセントにも満たないお笑いのコントがクローズアップされることも奇異だった。
だから、その理由が知りたかった、
しかし、もしかしたら、『失われた20年』間に濁流に飲まれていたのは、僕らの方ではないだろうか。
夢でも見ていたのではないか。
時代という流れに飲まれず、おぼれる僕らを見つめ、岸辺で見守られていたのかもしれない。
濁流の中でもがいていたのか、岸辺で見守っていたのか。
物事の見方は、立場により変わりうることを経験則で知っている。
私は、このブログを書きながら、実は桜田淳子さんの正当な評価を求めながら、実は、そうした時代に流された『自分探し』をしていたのではないかとさえ思う。
正直今更、時代が戻ればいいとか、大上段なことは考えていない。
いや、むしろ、復古主義は好むところではないし、発展的に昇華していかなければならないことを望んでいる。
今抱える矛盾が、どのように解決されていくのだろうか。
昨年11月26日、ファン感謝DAYで、『わすれな草』は、『青い花』として共有された。
桜田淳子さんとファンの『デビュー40周年』は、多くの思いとともに、過ぎていった。
数々の偶然があったとはいえ、多くの方の永年の努力が実を結んだと言っていいと思う。
41年前、桜田淳子さんの『スター誕生』でのデビューコーナー登場がうっすらと蘇る。
淳子さんが、忘れやすい青春時代の僕らの心に植えておいた『わすれな草』は、鮮やかな群青色だっただろうか。
2月25日を静かに迎えられたことが嬉しい。
追伸 動画のUP主様に感謝します。
遠藤周作『沈黙』を読んで今思うこと [桜田淳子]
1月18日、毎日新聞特別顧問の岩見隆夫さんが肺炎のため亡くなった。享年78歳だった。
岩見さんの見解には、結論に賛同できないこともあったが、深い洞察力には多くを学んだ。
記憶に新しいのは、日本には、定期的に開国と鎖国が来るということだ。
開国のときは、ものすごい勢いで外国の文化を無批判に受け入れる。
しかし、受け入れた外国の文化が飽和状態になると、徹底的に鎖国する。
そして、日本固有の文化との融合が図られる。時間をかけてゆっくりと。
大きなものでは、唐の文化もそうだし、ポルトガルの文化もそうだし、欧米文化もそうだった。
それは、宗教をも受け入れてきた。
遠藤周作さんの『沈黙』という小説は、示唆に富む。
殉教を恐れず、名誉を重んじる高名な宣教師は、なぜ棄教したのか?
そのことに、作者は一つの回答を示す。
それは、迫害に対する『殉教の美徳』ではなく、日本固有の風土に求める。
日本は『沼地』だと表現される。
この沼地はいずれ『根』を腐らす。
洗礼を受けた農民たちが信仰しているのは、キリスト教と似ているが、すでに別のものになっている。
この小説では、布教の無意味さに気づいて棄教するということを、作者独特の表現で大胆に描かれている。
学者の方を始め、賛否があるものの、多くの示唆にとむ。
多くの日本人は多神教に分類されるだろうが、それは、極東の辺境地に、文化を引き込む、祖先の知恵だったのではないだろうか。
以前、このブログで、『いなしの知恵』について書いたが、それに通じる発想があるのだと思う。
岩見さんの、開国と鎖国の循環も、遠藤周作さんの『沈黙』も同じ文脈で理解できる。
このブログの目的の一つは、桜田淳子さんの否定的評価を見直すことにある。
桜田淳子さんは、意志が強い。
その意志の強さが、僕らを突き動かす。
しかし、僕はこの矛盾に明快な答えを出すことは出来ない。
だが、微力ながら、このブログを書き進めるうちに、少しづつではあるが、疑問が解けてきたと言っていいかもしれない。
むしろ、疑問では無くなってきたと言ったほうがいい。
それは、唯一の正解ではないだろうが、そこに至る道だと思う。
複雑に絡まった歴史の糸を納得いくまでほぐすことはできないだろうが、近づきたいと思う。
今、願うことは、波が止まることだし、出来ることは、信じることだし、やるべきことは、想いを記録することなのだろう。
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僕の我慢が、いつか実を結び、
果てない波がちゃんと止まりますように
君と好きな人が、百年続きますように
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遠藤周作さんの考え方が正しいことを信じる。
追伸 動画のUP主様に感謝します。
桜田淳子『アイスルジュンバン』~生き方 [桜田淳子]
この年になって思う。
親になって最初に悩むことがある。
昨年11月の『ファン感謝デー』では、淳子さんは、久し振りに『桜田淳子』と自分の名を呼び、『いい名前』だと語ったことが、紹介されている。
淳子の『淳』に込められた思いは、ご両親が将来の幸せを込めてのものだった。
古い記憶だが、他の名前にしようとしていたのを変えられたものだと思う。
最後まで悩む。これでいいのかと。それが親なのだろう。
淳子さんは、事実として、結婚について実家の反対あった。
このブログを書いていて、このことが、僕のアキレス腱だった。
多くのファンにとっても。
そして、時は容赦なくお母さんに迫る。
昨年9月、淳子さんは秋田の実家を訪れ、お母さんやお兄さんとの懇親を深められたという。
昨年、最も嬉しかったのがこのことだった。
この情報こそ最も欲しかったものだった。
そんな願いを込めて、昨年の節分に書いた記事が昨日のことのようだ。
いくつの意味がこめられているのか。
岩清水のように淳粋な今を見る時、この名前は、淳子さんの生き方そのものを表していると思う。
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あなたがくれたこのこころは、優しい人を選びました。
自分じゃなくて家族の笑顔を願ってる人
いつか、あってください。
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『アイスルジュンバン』は、今、『愛する順番』となったのではないか。
桜田淳子的生き方は、永い時を経て一つの正解に達したことを強く信じる。
今日、七草の日に、櫻田家と東家の無病息災をお祈りいたします。
追伸 動画のUP主様に感謝します。
桜田淳子さんの終活ということ [桜田淳子]
桜田淳子さんの『一夜限りのファン感謝DAY』から一月が過ぎた。
多くの方のブログには、淳子さんのお別れの言葉の『終活』と言うことが語られている。
『終活』は、人それぞれだろうが、この『一夜限りのファン感謝DAY』そのものが、淳子さんにとっての終活の一つかもしれない。
そうだとするならば、このイベントは淳子さんの人生にとって非常に重要なものであり、それは決意のものだったのだろう。
このイベントに、どのような批判が可能だろうかと考えていた。
しかしながら、正直この『一夜限りのファン感謝DAY』についての反応を見るとき、20年前の反応とは、趣が異なってきたように思う。
あの合同結婚式のときは、国民が驚き、それに乗じて、一部のコメンテーターに先導されて、マスコミがそれに乗っかりセンセーショナルに伝えた。
そして、それは非難にかわり、霊感商法へと論点が移っていった。
この騒動の背後には、以前『イデオロギーの終焉』として、このブログに何回か書いたように、統一協会と共産主義のイデオロギーの戦いがあったと理解している。
20年という時の経過は、一部の妄想的な人を除いては、そのイデオロギー性は陰を潜めている。
そして現在の批判者は、弁護士という、ある意味特権階級と言うことになるのだろう。
被害者の代弁という形をとることにより、彼らの正当性が形式的に確保されているところが、より議論を複雑にする。
これから桜田淳子さんは本格復帰するかもしれない、そうしたら被害が増えるだろう、そうした仮定の下に、桜田淳子さんに非難を向けているように見える。
しかし、これら一連の主張には、彼らの法律論を展開する上で重要な概念である、『相当因果関係』はないのではないだろうか。しかも仮定の話ならなおのことだと思う。
この20年間に行われた司法改革の影響で、弁護士登録する人が以前の10倍以上に増え毎年2000人以上に上るという。
その過剰感から、就職難となり、大手事務所への『居候弁護士』という修行も経ず、質的低下を招き、弁護士会での役員構成が変わったと言われている。
とにかく仕事の依頼が欲しい。そうした新人弁護士の悲鳴があると聞く。
しかし、若手を引っ張る中堅弁護士の活躍の場として、霊感商法の広告塔批判が繰りかえさえるなら、重大な人権問題は避けて通れないのではないだろうか。
今は、精神的自由が、憲法上最高位の保障を受けいていることを記載するに留めておこうと思う。
追伸 動画のUP主様に感謝します。
桜田淳子さんの小さなイベントその3~その意味するもの [桜田淳子]
11月26日銀座博品館で、『ファン感謝DAY』が開催された。
会場に詰めかけた人はもとより、いけなかった人にとっても特別な1日だった。
多くの方の感動のブログがその興奮を物語る。
参加された方の喜びの声、参加できなかった方の真剣なコメントが並ぶ。
これでよかった。
翌日、テレビでは、1日だけの復帰が、温度差は違えど報道された。
もちろん全部見たわけではないし、受け止め方は人により異なるだろう。
そして、週刊誌の記事が追いかける。
淳子ファンからすれば、20年の溜飲を下げるものであっても、必ずしもそういう声ばかりでないことは誰でもわかる。
完全復帰を危惧する声があることには、耳を傾けなければならない。
20年間、桜田淳子さんは沈黙していた。
まさに、それが全てだと思う。
芸能界を離れた20年間は、淳子さんにとって幸せな時だったことだけは間違いない。
しかし、あまりにも突然の、芸能界幕引きは、多くの爪痕を残したのも事実だった。
今回のイベントでは、彼女をこれまで応援してきたファンへのメッセージ性の強いものになった。
と、同時に、お世話になった方々への感謝を述べられた。
何も語らず芸能界を去った彼女の無念。
そして、ファンとして、20年前支えきれなかった後悔。
淳子世代の僕らが、社会の荒波にもまれ、過去を振り返る余裕を無くしていたことも、社会が急激な早さで変遷したことも、全てが巡り合わせだった。
淳子さん、淳子ファン、その思いが重なることが、今回の小さなイベントの意味だったような気がしてならない。
しかし、潮の満ち引きがあるように、今回のイベントの成功の反動として、批判が集まってくるのが世の常だと思う。
僕らは、それが、つかの間の幸福の対価だとしたら、静かにそれに耐える事になるのだろう。
今回の小さなイベントで、淳子さんは、未だスター性を持っていたとの評価が高い。
評価が高まれば高まるほど、復帰の声が高まる。
それは、諸刃の剣となる。
それでも、僕は、道が開けることを信じる。
それは、彼女の評価を妨げる要因が、絞り込まれてきたし、一巡した感があるからだ。
批判は、淳子さんが沈黙した20年前から進歩してないばかりか、問題の本質の解決につながっていないのも事実だろう。
無意味な『失われた20年』と言うことになるのかもしれない。
次回から、20年前から変化の兆しがない個人批判は、現在どこまで妥当性を維持しうるのか、考えてみたいと思う。
桜田淳子さんの果てなく続くストーリー [桜田淳子]
夜の露を払って 花は咲いてゆくもの
涙を払って 人は行くもの
今年5月相澤会長の訃報を聞き、お通夜での桜田淳子さんへの気遣い、お通夜後の報道を見て、こんな記事を書いたのが昨日のことのようだった。
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桜田淳子さんの再評価の流れを見て、このブログは役割を終える予定だった。
しかし、7月末、淳子さんの40年記念が何がしかの形である気がして、それは漠然とした思いだったが、とにかくこのブログを再開しようと思った。
10月23日『Thanks40』の発売、11月26日『ファン感謝Day』とイベントが続いた。
聞くところによると、彼女の容姿も歌声も昔と変わっていなかったという。
淳子さんのがんばりは、昔から有名なことで、たとえ『2時間のため』でも、そのためならやり抜くだろうとは思っていた。
僕は、桜田淳子さんが好きだ。
そして、淳子ファンも好きだ。
話す機会もなく、垣間見る形でしかないが、いろいろな形で長年活動しておられる。
仕事の合間を見ては、淳子さんへの思いを馳せ、各地を回り、仲間を広げ、会を催し、本格的サイトを運営し、ブログを書き、ツイッターをし、わずかに流れる淳子さんの消息を求め、情報を集め、交換する。
それは、最も苦痛とする淳子さんへの否定的評価、報道、ネットを流れる戲言にも耐え、ひたすら桜田淳子さんの功績をいついつまでも残そうとするように思えてならない。
こうして、人生の後半戦を迎えたとき、こんな新鮮な気持ちになれるとは思わなかった。
そこには、利害もなければ打算もない。
『Thanks40』のブックレットでは、 『JBA』について綴られている。
アイドル時代の親衛隊だった。
自分のやるべきだと思ったことをやるその姿勢は、今も何も変わってはいない。
それぞれのファンが、今できることを、なにがしかの形で、やっている。
そのことが尊いと思う。
復帰するとかしないとか、そんなことではない。
桜田淳子さんが、幸せで有り続けることだけを願っている。
ただ一途に、桜田淳子さんとそのファンの方たちの、『果てなく続くストーリー』がいつまでも続くことを願ってやまない。
追伸 動画のUP主様に感謝します。
桜田淳子さんの小さなイベントその2~時を超えて [桜田淳子]
時は、たんたんと刻まれる。
無情にも、あるいは優しくも。
20年の歳月が必要だった。
そして、時間と空間が交叉する一点がまもなく訪れる。
その日を待つのは、今の私ではなく、あの頃のがむしゃらな僕達なのだろう。
怖いものなどなかった。
何にでもなれると思っていた。
そんな夢の空間、夢の時間が訪れる。
9月に『Thanks40』の発売発表があり、『ファン感謝DAY』の開催が発表された。
正直、この無力な20年間が蘇った。
20年前、圧倒的な批判の前に、なす術が無かった。
それから、過去の名声は浮かんではかき消された。
しかも、重しを載せられながら。
物事の評価は、見方によって変化することを、経験則で知っている。
『僕』が『私』になるにつれ、判断能力は身についてきたつもりだ。
もはや、20年前の否定的評価は踏み越える時期が来たと言うべきだと思う。
それでも、知恵遅れな議論を繰り返すことは、なにがしかの意図があるとしか思えない。
その議論の根底にあるのは、イデオロギーに由来する。
『イデオロギーの終焉』が必要なのはわかっても、今更ながら、超えられないのだろう。
淳子ファンは、昔から純粋な人が多い。
複雑な議論より、今回の小さなイベントを素直に喜びたいと思っている。
桜田淳子さんは、普通の芸能人にありがちな人気取りではなく、受け狙いではなかったことを僕らは知っている。
ただひたすら、自分の芸を極めたいと思っていた。
周りのスタッフも、そんな彼女に頂点を見せてあげたいと思っていた。
僕らは、そんな彼女が好きだった。それは、子供ながら感覚として理解していたつもりだ。
今、この年になって思うことは、高みを目指す彼女を助けられなかったことだろう。
宗教問題が利害打算とともに取りざたされる。
しかしながら、彼女が芸能に打ち込む背景に宗教的確信があったとしても、それは僕らに何ら影響しなかった。
私は、無信教というより、他の多くの日本人特有の多神教に分類され、しいて言うなら母と同じく仏教になるのだろう。
そのこと自体に、何ら価値を見いださない。しかし、宗教を理解することは出来る。
残念ながら、桜田淳子さんが復帰するのは叶わぬ夢だと思っている。
それは、年のせいではない。
トムクルーズの例を引くまでもないが、日本人の思想的成熟を待たなければならないからだ。
僕は、幼稚な議論に引きづられ過ぎたことが残念でならない。
ただ、教訓として、一方通行の批判は何も生み出さず、ただ追い込むだけだと言うことを教わった。 必要なのは、是々非々として理解する姿勢だと思う。
僕は、桜田淳子さんの小さなイベントに参加することはできない。
これは長年、応援された方へのプレゼントだと思っている。
しかし、遠くにいても、彼女を信じ続けることは変わらないだろう。
追伸 動画のUP主様に感謝します。