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昭和のアイドル考察ー正統派の意味 [桜田淳子]

今年で、日中国交正常化40周年になる。
そういえば、40年前の1972年正常化の証として、中国より2頭のパンダが贈られた。
カンカン(康康、雄)とランラン(蘭蘭、雌)の人気は凄かった。
一般公開は11月だったと思う。
朝日新聞の見出しは「2時間並んで見物50秒」。立ち止まることが許されないほどの混雑だった。
あれから、40年様変わりしたものだと思う。

1972年11月といえば、アグネスチャンが日本で歌手デビューする。
『ひなげしの花』だった。
当初の衣裳はロングであったが、73年よりミニスカートに変えて人気が急上昇した。
だからだろう、アグネスが、翌年の新人賞候補になっているのは。
ともかくも、友好ムードは別にしても、その人気は高かった。

レコード売り上げでは、ダントツトップなのだから。
しかも、1973年7月発売の「草原の輝き」が大ヒット、10月発売の「小さな恋の物語」が自身最大のヒット曲となり、オリコン1位を獲得している。

当時、数字を重視する風潮がどこまであったかわからないが、実績なら文句なしの最優秀新人賞だった。

ハンデキャップの中、国内組が追う展開となる。
その年の新人賞争いは、熾烈を極めたことは間違いない。

73年2月14日、浅田美代子は『時間ですよ』(第3シリーズ)のお手伝い役でデビュー。
国民的な高視聴率番組のもと、たちまち人気を集める。
また劇中歌でデビュー曲の『赤い風船』は、1年で50万枚近くを売り上げオリコンの年間セールス10位の大ヒットで、この年の新人歌手のシングルでは最大のヒットを飛ばす。

73年7月、安西マリアは、『涙の太陽』を大ヒットさせ、その独特なフィンガーアクションはよくものまねされていた記憶がある。

73年5月25日、あべ静江は、“フリージアの香り”のキャッチフレーズで、キャニオンレコードから「コーヒーショップで」でデビュー。デビュー曲はオリコンでベスト10内にランクされ、またシングル売上約28万枚を記録する自身最大のヒット曲となり、9月25日の「みずいろの手紙」も大ヒットした。

2月25日、桜田淳子は『天使も夢みる』で歌手デビューし、『天使の初恋』『わたしの青い鳥』『花物語』とコンスタントにヒットを飛ばした。

この5人、いずれも実績に申し分はない。

他にも、山口百恵がいる。なぜ選ばれなかったかは不明だが、所属の事務所の力関係ではないと思う。あるとするなら、レコード会社のバランスかもしれない。山口百恵の所属するCBSソニーには、50万枚を超えるセールスをした浅田美代子がいたからだろうと思う。
五人の顔ぶれを見ると、見事にレコード会社で色分けされている。

こう考えたくはないのだが、レコード大賞という冠からすれば、当然かもしれない。

しかし、レコード会社の思惑、所属プロダクションの思惑もこの5人のステージに選ばれるところまでだと思う。

この5人から一人を選ぶ作業こそが、このレコード大賞が大晦日に行われる意味だった。
だれが選ばれるか、だれも予測ができなかったと思う。
ちまたのうわさでは、アグネスと桜田淳子に絞られていたのだが。

では、なぜ、最優秀新人賞は、桜田淳子だったのか。

これをなぞだとする声は当時からあった。
レコード売上げを根拠に上げ、おかしいという人がいる。

しかし、そうだろうか。
最優秀新人賞とは、何なのか。
レコード大賞のミニチュアなのか。それとも番組のお飾りなのか。

いや違う。それはこれからの時代を映すものでなければならなかったと思う。
レコード大賞の審査員達がどういう思いを持っていたか、想像するしかないが、新人に託する夢こそが、審査員の思いではなったか。

当時、テレビの主役は天地真理だった。低年齢層から、高齢者までの幅広い人気を持つ国民的アイドルだった。
しかし、当時21歳、人気にかげりも見えはじめるといっていい。

また、これから需要が増えるティーンエイジャを開拓するには訴求力のある個性が求められる。
カラーテレビの精度が高まるにつれ、新鮮さ、はつらつとした光景がより鮮明に描き出される。
それに見合うものでなければならない。

審査員は、間違いなく天地真理の後継者を求めたといっていい。
それは、翌年の紅白歌合戦で証明される。切ないというより息苦しく歌う『思い出のセレナーデ』と、山口百恵さん森昌子さんをバックにハツラツと歌う『黄色いリボン』と見た目にも好対照だった。

しかし、レコード大賞の審査員達が求めたのはそれだけだろうか。
アイドルは、若年層のシンボルと位置づけていいと思う。
願わくば、青少年を健全な方向に向けるものであって欲しいと思うのが道理ではないかと思う。
ファンは少なくとも、アイドルの一挙手一投足に影響を受けるものだ。
審査員たちは、ハツラツとした中にも伝統的な価値観を持つ一途な桜田淳子にその未来を託したように思える。

その桜田淳子は、79年のNHK『ビックショー』でのMCで、大学入学とともにファンを卒業する人の手紙を紹介し、『青春時代のお役に立てたことで十分幸せです』と返している。
当時としては、紹介は奇異なものだったが、アイドルの使命を終えつつあること知っていたのであろう。

アイドルのトップにいることが、いかに大変なものかを知る人は限られている。
そして、その椅子には常に誰かが座らなければならない。
それが、アイドルの正統派の持つ意味なのだろう。

レコード大賞の審査員たちの判断は正しかったのではないだろうか。

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