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ものまね文化と三人娘ー桜田淳子の復権を思う [桜田淳子]

1966年から77年にかけて『象印スターものまね大合戦』という番組があった。

司会の玉置宏さんが『象印スターものまね大合戦』とタイトルコールをし、
『一週間のご無沙汰でした。玉置です』
というおなじみのフレーズから始まっていた。

私の田舎の局では、午前10時からの番組で、『兼高かおる世界の旅』の後、この番組をみるのが日曜日の朝の楽しみだった。

その『象印スターものまね大合戦』では、スター達の持ち歌以外の、ものまねが聞ける楽しい番組であった。
五木ひろしさん、森昌子さんなどは、非常にうまかったのは今でも鮮明に覚えている。

当時のものまねは、まねされる方に対して敬意があったように思う。
歌がうまいとかどうかではなく、この人の真似がしたいという感覚だ。
本来、赤ちゃんが、母親の真似をして、ことばを覚えるように、こうなりたい、あるいはこんな自分を表現したい、そんな自然の発露ではなかったかと思う。

かって『花の中3トリオ』といわれた、稀代の才能を持った三人の人気アイドルがいた。
森昌子、桜田淳子、山口百恵の3人だ。
その3人が高校2年生のとき、この番組で、ものまねをした映像がYoutubuにあるので、覗いてみた。
貴重な映像で、昔見た記憶がおぼろげながら蘇った。

桜田淳子さんは、『憧れの女性としての あべ静江さんの水色の手紙』を披露したし、
森昌子さんは『尊敬する島倉千代子さんのおっかさん』を熱唱し、
山口百恵さんは、『花にたとえると、ひまわりのようだといっていた桜田淳子さんの はじめての出来事』を歌っていた。

高校2年生にして、この出来映えであるし、今の芸能人にここまでできるかと思う。
しかし、何よりすぐれているのは、この3人とも、芸能にかける意気込みはもとより、
まねをするというより、『させてもらっている』という精神が伝わってくる。
そして、自分にない何かを吸収しようとする姿勢がる。
謙虚さもしれない。
これが70年という時代人の精神だと思う。

しかし、歌手が他の歌手の有名な持ち歌を真剣に真似するのは次第に敬遠されるようになる。
これも、この時代人たちの精神だろう。
歌に対する思いが伝わってくる。
その風潮が正しいものかどうかはわからないが、その持ち歌は、その歌手だけのものであることに違いない。
絵画や音楽家と同じ感覚だったのだろう。
『象印スターものまね大合戦』の番組終了は、そのような歌手の気持ちの反映だったのかもしれない。

そして、時代は移り1980年代にはいると、時代そのものに対し違和感が生まれてくる。

歌手によるものまねに代わり、ものまね芸人によるパロイディの時代に入ってくる。
コロッケなど有名なところである。
本人の特徴を誇張して表現しており、こちらの方が世の中で有名になった例も多い。
残念ながら、よさは私にわからないのだが。

この70年と80年以降の時代間格差は大きいように思う。
例えば、70年代好まれた、『巨人の星』などのスポーツ根性、努力は、80年代以降、ややもすれば馬鹿にされる風潮さえある。
多感な青春時代を70年代に育んだ私にとっては、残念な80年代である。

『花の中3トリオ』の80年代以降はどのようなものだっただろうか。

山口百恵さんは、80年にはいるや、結婚生活にはいり、本人の芸能活動はないものの、ご主人、二人の息子を影で支えている。

森昌子さんは、演歌という時代に影響されにくい世界で生き、結婚、出産、離婚、芸能界復帰を果たし、闘病生活がありながらも芸能生活を行っている。

桜田淳子さんは、80年代は女優業を中心にして、ミュージカルなどで功績を残しながらも、92年以降、時代に翻弄され芸能生活を離れ、結婚、出産を経験し今日に至っている。
桜田さんの芸能生活の事実上の引退は、本人の不本意とするところかもしれない。

このブログは、70年代の時代人として、語るものであり。山口百恵さん森昌子さんが、本人の人生として、ある意味すごしているのに対し、桜田さんの場合、その一途さゆえの不運には、残念で仕方がない。

その批判の対象は、桜田さんの思想はもとより、その作品についてまで過小評価として影を落としている。
これは、正しい評価だろうか。『出来ないのに批評する』、まさに80年以降の方向といぶかるのは私だけだろうか。

批評の賛否はともかく、統一教会がもつ韓国の国民宗教的性格、信者への贖罪意識というマインドコントロール、資金集めという実態を垣間見るとき、桜田さんの現状を無念に思う以外ない。

ささやかながら、せめて、彼女の歴史的意味を考察して、世の中の間違った解釈を正そうとするのがこのブログの試みである。
異論があるかもしれないが、それは後々の時代が証明することである。

それにもまして、事実上の引退から20年という長い歳月を皆さんはどう考えるだろうか。
あまりにも長すぎる20年を。

なぜ桜田淳子だったのか?その2 [桜田淳子]

日記を書く少女にどのような印象を持つだろうか。

几帳面。確かに。
物静か。何となく判る。
夢見るタイプ。なるほど。
内気。そんな感じだ。
優しいイメージ。多そうだ。
内向的。かもしれない。

どれも、当たっていると思う。

日記を書くのが好きな少女がいた。

70年代の象徴的アイドル桜田淳子だ。

小さい時から日記を書くのが好きで、多忙になった芸能界に入っても変わることは無かった。
一部公開されているようである。

日記は書いた方がいいと、小さい時に先生に教わり、試した人は多いと思う。交換日記などを経験した人も多いだろう。

しかし、感傷的な時は過ぎ、いつしかやめてしまった、という人が多いと思う。
私も中学時代ほろ苦い思い出と共に日記をつけた経験がある。

しかし、桜田淳子は違った。
彼女はいいと思ったことはやり続ける根気とけなげさがあった。
そして、感傷的であり、感受性が人一倍強かった。

だから、そのあふれる感情を書き留める必要があった。
それが、日記であり、詩であり、イラストであり、演劇の脚本であり、歌だった。

彼女が『感激屋』あるいは泣き虫だったことは、多くの人が語るところである。

そんな彼女の性格が、芸能に向かう時、その頑張りと共に、その才能は生かされ、感受性が、目の前に表現されることになる。特に観衆のいる舞台では、その感性は研ぎ澄まされ、より増幅されるのだ。

しかし、その才能の表裏として、彼女の一途なところが頑固な性格と受け取られ始め人目に付くようになると、人の評価も厳しくなるというものだ。彼女の芸能活動に対する過小評価はこのような所にある。

桜田淳子の『純潔な思い』が、時代の流れの中で芸能界から受け入れられにくくなるにしたがって、それを受け入れる方になびいてしまったのが、ファンにとっての不幸の始まりだった。

しかし、彼女の『純潔な思い』は、生来のものだろうか。
会社の宴会部長だった父親の血を引き、人前で歌ったり、踊ったりとにかく人を楽しませるのが好きなだけだったのではないか。
それがいつから、貞操観念に発展したのか。

姉が暴漢に襲われたからか、富山のコンサートでファンが舞台に押し寄せ囲まれたことか、芸能界交歓図裁判か、いろいろささやかれる芸能界の裏側か、いろいろな要因があると思う。

彼女にとって不純な事があるたびに、『純潔な思い』が、統一協会の教義の極一部とともに、周りから少しずつ、まことしやかに語られ、強化(教化)されて行っても不思議はないだろう。

彼女の『純潔』は、彼女の一途な真面目さと、自分を追い詰める内向性、という内的要因、
それに、韓国人の日本女性へのイメージと統一協会の戦略という外的要因とが絡み合ったものだった。

残念なことではあるが、彼女の
誇張された『純潔』精神は、マインドコントロールによるものだと思う。

次回は、マインドコントロールは解けるのか、という、昔の圧倒的多数だった桜田淳子ファンの心に潜む難題を考えてみたいと思う。

なぜ桜田淳子だったのか [桜田淳子]

1973年、14歳で芸能界にデビューし、芸能界の勢力地図を塗り替えた少女がいた。

いきなり、その年の新人賞を総ナメにした。『天使』とは、彼女の代名詞となった。

『立っているだけでも天才』といわれた桜田淳子の登場だった。

しかし、後々その個性的なキャラクターのために、思わぬ方向に事態は進んでしまう。

なぜ、あの忌まわしい事件は、桜田淳子でなければならなかったのか。

産経新聞の記事を紹介しよう
産経新聞 2012/06/09
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反日感情の例外 日本女性人気の秘密はどこに? 

【日本人が知らない日本】

 韓国では日本女性は昔から人気である。歴史がらみであれだけ反日感情があって、マスコミでは日本への非難、批判があふれているのに、日本女性の評判だけは例外だ。

 たとえば、昔から日本が登場する映画やドラマでは日本の男は決まって悪者だが、女性は韓国に理解のある「いい日本人」として登場する。

 日本女性に対するいい評判の背景には、古くは日本統治時代(1910~45年)に韓国人が直接、見聞きし体験して、神話的に言い伝えたことがある。

 「日本女性は優しく、礼儀正しく、愛嬌があって、従順で、男に尽くす」というのがそれだ。

 まさに「古いタイプの日本女性像」だが、古い世代の韓国人は今もそう信じていて、日本女性が話題になると眼を細める。

 筆者は1970年代のソウル留学当時、夜の酒席でそばに座った韓国女性から「日本女性は男によく尽くすんだそうですね。私も負けずにがんばらなくっちゃ!」とよく言われた。

 子供のころから父母あるいはじいちゃん、ばあちゃんからそう聞かされてきたというのだ。

 今でも韓国人にとっての日本女性イメージは「よく笑う、よくうなずく、よく“すみません”という」だが、これもどこか過去イメージに重なる。

 ところがその後、時が移り現代日本の体験者が増えるにつれ別の声が出始めた。日本帰りのビジネスマンなど「日本には美人は少ない。韓国女性の方がいい」というのだ。

 確かに北方系の韓国女性はスラリとしてスタイルがよく、顔の表情もきりりとしている。それに比べると日本女性は小柄で柔らかい。女子フィギュアスケートの「キム・ヨナと浅田真央」の違いだ。

 浅田真央は韓国には無いタイプだから、韓国男性にも「愛嬌と優しさ」で結構人気があるが。

 しかし国力増大や“韓流ブーム”などを背景に韓国人には近年、対日自信感が広がった。「韓国女性の方がいい」にはそうした心理もあるようだ。

 ところがしばらく前から、韓国社会に日本女性についてのある種の誤解(?)が広がっている。

 日本の週刊誌やビデオ、ネットなどを通じて日本女性のヌードやポルノが韓国社会に浸透した結果、「日本女性はすぐ脱ぐ」とか「淫乱だ」といったことが信じられ、そういう声がよく聞かれるのだ。

 この日本女性イメージは韓国人を困った行動に駆り立てる。たとえば日本の女子留学生が韓国人学生からよく迫られたり、韓流観光の日本女性がよく“被害”に遭ったりしている。

 しかも韓国の男性は一般的に女性には“押せ押せ”である。相手の都合や意向などは意に介しない。男女関係で「10回叩いて倒れない木はない」というコトワザまであって、それを実践するのだ。

 こんなコトワザがあるのは、実は韓国女性の方が押しに弱く、情にほだされて「倒れやすい」からといえるのだが…。

 男の立場での話ばかりで申し訳ないけれど「男にとって日本の女性と韓国の女性どちらが御しやすいか?」はなかなか解けないナゾである。(ソウル 黒田勝弘)

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この記事を読むと、不思議に謎が解けて来る。

日本が朝鮮戦争で復興に弾みがついたように、韓国は、ベトナム戦争特需で経済的発展を遂げたのである。実に1965年から1975年までの10年間に及ぶ。
戦争特需は、終わり、一時減速するものの、日本を手本に発展を遂げていく。

日本はどうか、1970年代位までは、この記事前段の女性が多かった時代で、70年半ば位の中ピ連あたりから、日本の女性像が少しずつ変わり始めたのかもしれない。

桜田淳子というキャラクターは、ファンなら常識かもしれないが、その古風さにある。
吉永小百合の再来と言われるゆえんである。
『すみません』というのは、彼女の口癖の一つでもある。

桜田淳子が、入信したのは本人の述懐によれば、19歳というから、1977年頃だ。

その頃、中ピ連から発展し女性党が、活動を始めるなど、ますます女性像が変貌し始めてきた。
桜田的女性は、進歩的女性には古臭くなってきた。むしろ鼻持ちならなくなったかもしれない。
『隠れ淳子ファン』が増えてくる。そんな日本の現状は、本人には、理解てきなかったかもしれない。

ここに、韓国人の持つ日本の女性像と桜田淳子の純潔の価値観が見事に符合することになる。

そして、姉の導きにより、身近な統一協会に入信することは、不思議なことではなくなる。
これがマインドコントロールとは、桜田本人も意識できないだろう。

時代背景と重ねるとそう考えざるを得ない。

『アイスルジュンバン』と言う彼女の著作は、家族を愛する彼女の伝統的価値観が表されている。逆を言えば、それ以外の教義は、彼女にとっては、無価値なものなのだ。

日本では、戦後崩壊した大家族的『家制度』の価値観の幻影を、統一協会の教義の中に見出したのだろう。

それだけのために。
只々、残念で仕方が無い。

すみれの花と『美を求める心』 [桜田淳子]

70年代の受験生の必読書に、小林秀雄さんの評論があった。

当時、『考えるヒント』や『本居宣長』やら、必死になって読んでいた。
前者は、短篇なので読み進められるが、後者は、氏が長年の研究した成果なので、読めば読むほど苦痛になる。
言葉を記号としてしか理解できない凡人の私には解読不能だったといっていい。

そんなある日、小林秀雄『美を求める心』~形と美について~という。文章に出くわした。

先ずは、引用してみたい。

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言葉は眼の邪魔になるものです。

例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。

見ると、それは董(すみれ)の花だとわかる。

何だ、董の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。

諸君は心の中でお喋りをしたのです。

董の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。

それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。

董の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。

言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、

花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、

それこそ限りなく明かすでしょう。

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なにを意味するのか、置き換えてみよう。

テレビでよくやる、過去映像を見せて視聴者の反応を見る番組をみると視聴者の受け取り方は様々だ。

全体的に年少者の方が感受性がある。
大人は似たよなコメントでつまらない。
自分の経験と重ねてイメージを固定化しているのであろう

例えば、YouTubeで『三色すみれ』を検索すると、15歳の桜田淳子の歌唱シーンを目にする。

知っている人には、『何だ桜田淳子か』で終わってしまう。かもしれない。名前を聞いたことがある人には、『子供っぽいなぁー』としか、映らないかもしれない。

初めて見る今の若い人は、今の時代ではあまり見かけない独特な清楚さを見出すものの『古臭いなぁ』と片付けるかもしれない。

しかし、これが、当時の思春期直前の少年ともなると、一気に打ちのめされることになる。
そして、頭の中で、何とも言えぬ『可憐な美しさ』となって蘇える。

言ってみれば、
小林秀雄氏の『美』とは、そういう美なのだ。

とらえようとする思いを持つ者には、感じられるが、それは言葉にすると異質なものになる。

さらに言葉に変換され、理解されると、もはや感じられなくなる。

真の『美』は、客観視できない厄介なものとなるのだ。

『知識』(予断と言ったほうがすっきりするかもしれない)は、『芸術』の妨げになる。といっているのだ。

改めて思う。
いつまでも美しさを感じられるよう、子供のように、見つめ続ける自分でいたいと。
そして、外見や現在の置かれた立場に左右されることなく、良さを発見できる自分でいたいと。

昭和アイドル再考 [桜田淳子]

昭和アイドルと聞いてどんな印象があるのだろうか。

娘に聞いても『はぁー』と一笑され、家内には、今頃とバカにされた。

しかし、昭和アイドルには、時代を映し出す鏡があった。

昭和アイドルの中に、70年代を代表する桜田淳子と山口百恵がいた。80年代以降松田聖子がいる。

何れも功績を残した記憶に残るトップアイドルだ。
松田聖子は現役だから、語るに及ぶまい。

従って、芸能界に革命をおこした、桜田淳子と山口百恵を語らなければならない。

しかし、二人の幕引きは、誰の目にも余りにも対象的に思える。

山口百恵が神格化したかのごとく扱われるのに対し、桜田淳子は『堕天使』の扱いだ。

仲の良い二人を分けたのは、運命のイタヅラと大人の思惑だったように思う。

現代まで通じる問題を、次回から不定期ではあるが、桜田淳子を中心に考察したいと思う。
(敬称略)

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