風が吹けば桶屋が儲かる~桜田淳子さん沈黙の意味 [時事]
20年以上の前のことを微かに覚えている。
1992年の事だった。
朝、出がけに、家内が声をかけてきた。
桜田淳子さんの結婚会見がテレビで放映されていることを受けてのものだった。
突然のニュースに驚きはしたが、軽い返事をしたことを覚えている。
それからというもの、桜田淳子さんについては、否定的な報道が相次ぎ、ついには批判報道は確立する。
もはやバッシングという簡単な言葉では済まされなくなっていた。
その後の十年は、統一教会がらみで非難の十年。
そして、芸能界から無視されたかのような十年。
そんなくくりになるように思う。
その時々の浮き沈みはあるにしても。
自分自身何も出来なかったにせよ、今に思えば心苦しい時の流れである。
桜田淳子さんにある批判の中心を見てみると次のようになる。
- 先ずは、統一協会の広告塔であるという批判
- 恩師相澤会長への霊感商法に関わったのではないかという批判
- 統一協会によりマインドコントロールされているのでないかという批判
そのことから、復帰については
謝罪が必要であるという
統一協会からの脱退が必要である
と言う意見がある。
それについて、桜田淳子さんの答えは、20年間の『沈黙』だった。
その桜田淳子さんが、11月26日(火)極めて限られた空間ではあるがステージに立つ。
様々な思いがこもるが、彼女自ら破る沈黙の意味は重い。
それは、『1日限定』しかも来場できるのはCDアルバム『Thanks40』を買った人だけの、おそらくはオールドファンが中心となるのだろう。
この限られたイベントが復活と言えるか疑問ではあるが、一つ言えることは、オールドファンの心に残る彼女のイメージが変わることないものであり続けたかを確認できることにある。
私の思い描く彼女の人間像と現在の実像が何の曇りもなく重なるものであると確信している。
そして、彼女に対する批判の大半が、ありふれた人間像の延長線上のもであり、桜田淳子さんの人間像に迫るものではなかったと思う。
だから、桜田淳子さん自身、批判に対して『沈黙』が可能だったのではないだろうか。
11月26日の『ファン感謝イベント』に向け、雑誌、テレビでは、比較的中立的な報道がなされているように思う。
これまでの、20年間を思うとき、それは、意外だと受け止められているのではないだろうか。
むしろ、これまでの20年間の報道のあり方が異常だったと思うのだが。
そこで、進行的ではあるが、少し総括してみたいと思う。
先ず、マインドコントロールという非現実的な批判報道は、中島知子さんの一連の報道以後、さすがに陰を潜めた。
恩師相澤会長への霊感商法への関与は、故相澤会長のお通夜の報道の際に、否定された。
残るのは、統一教会の広告塔という批判なのだろう。
そこで、『統一教会の広告塔』という批判の意味を考えてみたいと思う。
それは、霊感商法の訴訟と大きく関わり合っているのではないだろうか。
日本の『失われた20年間』の功罪の一つに、司法のバランスの喪失がある。
法曹3者の内、裁判官、検察官以外は弁護士への道を選択することになる。
その数は司法改革のあと、うなぎ登りとなる。
もちろん、弁護士の増加とともに、『PL法』や消費者保護の関連法、薬害訴訟など、アメリカ的な訴訟社会への布石はうたれ、供給と需要のバランスを試みられたが、未だ十分な状態ではないのだろう。
そのため、今では年収200万円以下の弁護士がざらにいるとの報道が相次ぎ、不正事件も多く聞く。
これは周知の事となっている。
訴訟社会への移行が、弁護士の金銭的ステータスを高めることになるはずだったのだろう。
しかしながら、アメリカ的な『PL訴訟』は、製造者としての企業の負担を重くする。ひいては、輸出に大きなダメージとなる。
そこで、資金力のある企業ではなく、消費者をターゲットにした、訴訟が弁護士の活躍の場となる。
だけれど、消費者訴訟は、一つ一つは比較的少額な訴訟であるが、かかる負担は、大きい。
そのため、法廷闘争を有利に展開するために、社会問題化する必要がある。
『悪徳商法』『霊感商法』というのは、そうした法廷闘争にとって有利なものとなる。
統一教会、霊感商法、桜田淳子という一連のレッテル貼り(ラベリング)は効果的だった時代がある。
いわゆる『広告塔』の活用であった。
そうした、この20年間の弁護士、ひいては訴訟をめぐる流れをみて、次の記事を読んでもらえばよくわかると思う。
紀藤正樹弁護士投稿
正直、未だに、20年の時を超え、旧態然の批判には情けなく思う。
落語に
『風が吹けば桶屋が儲かる』
と言うのがある。
現代の桶屋でないことを祈るのだが。
この記事の、中身の問題点については、次回以降綴りたいと思う。
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