東京大行進から思うこと [時事]
世の中が平和になったと言うことなのであろうか。
それとも、平和であることが当たり前だと思える国になったのだろうか。
そんなことを考えさせられてしまう。
9月22日、東京大行進が行われた。
これまでは、『嫌韓デモ』に対するカウンターとして行われていた。
それは、許可を受けた正規のデモに対する妨害としか映らなかった。
しかし、今回は、独立した『デモ』として、外国人に対する平等な取り扱いを主張した正規のデモである。
憲法14条では、国民は法の下に平等であると説く。
そこから導かれる文理解釈は、国民に与えられた権利であること、法の下の平等である、ということなのだろう。
そこからすぐに、日本国民以外の人を日本人と同じ取り扱いをすることは導かれないし、後段の差別されない権利にしても同じであろう。
今回のデモは、韓国人などの外国人に対する救済的なものであろうから、それは、憲法の直接意図するモノではない。
それは、立法政策の問題である。
今回のデモはそうした立法府に対する要請として意味を持つ。
それは、税金をどのように配分するかと言うことだからである。
次に、今回のデモが、『あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約』
で、規定する条項についての政府の対応を求めるというモノであれば、その価値がある。
日本も批准しているが、条約をどこまで国内法として立法化する問題となる。
各論的には、『ヘイトスピーチ』をどう取り締まるかというこことになるのであろう。
自由を標榜するアメリカは、『言論の自由を妨げない』という留保をつけているし、日本も『集会、結社及び表現の自由その他の権利」の保障と抵触しない』という留保をつけている。
アメリカでも、日本でも、表現の自由については、高度な保障がされており、制限する立法は違憲と判断される恐れが高い。
有識者は、そのことの危惧を理解している。
しかしながら、今回の『東京大行進』は、平穏裏に行われ、国内的にも一定の評価を受けるし、諸外国にも評価されることだろう。
特に、今の日韓関係、日中関係をみるとき、そのことの方が、貴重なのかもしれない。
韓国や中国において、いかに目を覆うような反日デモが起きても、同じようなことを日本国内で行われることには嫌悪感を感じる。
『目には目を』というのは、文化国家のすることではないと思う。
そういう意味では、『嫌韓デモ』とはいえ、正規の手順を踏んだデモを妨害することには反対であるが、国民のなかから、正規の手順を踏んでわき上がるデモには敬意を表する。
ただし、まじめな主張が、特定のイデオロギーと結びつかないように、デモが一人歩きしないように、そして、憲法改正の口実にならないように、見守りたいと思う。
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