SSブログ

自分を守れる人ー血脈報道に思う [時事]

『ばか、あほ、お前の母さん出べそ』
だったと思う。

45年以上前のことなのだが、子供のけんかの別れ際にはこんな言葉が交わされたものだ。
今考えると、いかに滑稽な表現かと我ながらあきれる。

今のマスコミがこうなのだろう。もしかしたら、日本のムラ社会が編み出したことかもしれない。

先週来の『週刊朝日』と橋下大阪市長のバトルをみていると、未成熟な社会の病巣を思い知らされる。

この一週間の動きを、疑問符をつけながら見返してみたい。

① 佐野氏の記事内容は、常軌を逸していないか
 キライだから、嫌いだ、だからルーツを暴くというのは、およそ評論の体をなしていない。人は様々な変容を受け成長する。
遺伝的要因があることは否めないが、環境的要因が作用することにより、人の成長は変化する。そして見方により、どのようにもとれる。
そうであるとすれば、およそ評論するには、多方面からの観察が必要になる。
それなくして、語ることはできないと思う。
およそ例外があるとするならば、マイナス評価が先行する場合プラス評価を強調すること、誇張することは許されるのではないかと思う。
私も、これまでこのブログを利用して、桜田淳子の意味を肯定的に検証しようとするのはそんな意図からだ。

② なぜ『週刊朝日』は、この時期を選んだのか。
 竹島問題に端を発し、今、日本と韓国の間に緊張関係が続く。
どうしても、国を守ろうとする勢いに分がある。日本が右傾化していると言われている。
この20年間に日本は左よりの政策が採られてきた。それが国際化と信じてきたのだろう。
その政策の歪が露呈してきている。

 石原都知事、橋下大阪市長の発言にその傾向を強く読み取る。領土問題などは、主権という面からも見逃せないし、従軍慰安婦問題は、歴史問題として声高に叫ぶのは、特定の意図があるとしか思えない。

 その時期、反撃をしようと企てたのがこの記事であることは誰の目からも明らかだ。しかし、事件性がないにもかかわらず取り上げる記事としては唐突すぎないか。

③ なぜ相手が、橋下氏だったのか。
 弱いところをたたくのは勝負の鉄則かもしれない。
 しかし、前述とも関連するのだが、橋下氏の『維新』に陰りが見えてきたのを見て、叩くということのように思えるが、橋下氏は自分を法的理論武装していると考えたほうがいい。
相手にするには、あまりにも軽率な攻撃ではないか。

④ なぜ攻撃方法が『血脈』だったのか。
 血筋や、家柄、土地柄など、本人ではどうしようもないことだが、結婚に際しては親として考えざるをえない。それでも、言葉に出すのはタブーだと心得なければならないだろう。
 それは、戦後の日本が克服してきた平等思想に由来するものだ。ましてや、言論機関がその傾向を持つとされる表現は、致命的だと言わざるを得ない。

⑤ なぜ、すぐに謝罪されたのか。
 謝罪のコメント、謝罪記事ともに異例の速さで、連載中止も早い。
こどもの喧嘩なら潔いと感じ頭でも撫でてやるところだろうか。
一端の記事となれば話は別だ。これでは、それまでの読者は裏切られた気持ちになるだろう。

 それでも、謝罪となったのは、親会社の朝日新聞の影響を見ることができる。しかし、おかしくないか。今まで、別会社だと突っぱねていたのが、実は影響がありましたというのは矛盾に過ぎないか。それなら、これまでの記事も影響があったと見るべきではないか。どちらにしても、橋下氏がこの点をついてくることは間違いない。


 他にも、疑問点は多い。しかし、今回の記事は、内容もさることながら、あまりにも稚拙な発想に基づいているとしか思えない。天下の朝日新聞グループにしては、質が悪すぎるように思う。この程度かと思うと、主義主張の枠を超えても嘆かわしい。

 それにしても、今回の騒動、朝日新聞グループのダメージは計り知れないものとなるだろう。もはや、橋下氏を批判することもはばかられ、語ることさえままならないだろう。
報道機関としてそれでいいのか。

 対応の失敗は、自壊を招き、許されないが、根本に、イデオロギーの違いを持つだけに前途は多難だろう。

 過去にも、週刊誌の報道のあり方には幾多の問題があった。
しかし、週刊誌にゴシップ記事はつきものであるとの妙な観念がある以上、逆説的には週刊誌は存続するだろうが、個人攻撃のあり方は、我慢できない。
なんとか、ならないものだろうか。

それにしても、今回の騒動が、言論の右傾化を助長するのではないかと思う。いささかバランスが気になる。健全な批判精神こそが、民主主義を支えるものだと思う。


追伸  
 このブログを書くきっかけは、ささいなことだった。
1972年であっただろうか。沖縄返還の密約問題で、毎日新聞の西山記者の記事をめぐって騒動があった。報道のあり方を問われるものになってしまったが、問題を摩り替えたのは、ある週刊誌のスキャンダラスな記事だった。
この西山記者をスキャンダラスに攻撃する記事により、新聞から政治的スクープが遠ざかった。

 ここから、『ブンヤ』がいなくなったのではないか。健全な報道の自由が犠牲になってしまった。80年代後半以降、軽い記事しか残らなかった。週刊誌とどこが違うのかと思うものさえある。かわりに70年代半ばより週刊誌が市民権を得たように思う。

 とくに、芸能界における記事は目を覆うものが多い。当時、桜田淳子などのアイドルも面白、可笑しく記事になっていた。それらは、僕らを遠ざけるものだった。
 そして、1992年の合同結婚式、霊感商法疑惑報道も、一人を人格攻撃するにはあまりにもひどいものだったように記憶している。
 物事の本質を追求するジャーナリスト精神が不足していたひどい記事だったように思う。

 今回の橋下氏との決定的違いは、自分を理論的に守れるかという、ことだった。14歳から歌を歌い、芝居をし、ともかくも人を楽しませることしか知らない人に自分を守れたのだろうか。

 今、桜田淳子を書いても、何の意味もないのかも知れない。むしろ忘れられた方がいいのかもしれない。しかし、『全否定的』な言論には、将来はないと思う。
せめて、否定的評価ではなく、正当な評価の土俵には乗せてあげたいと思う。

nice!(1)  コメント(3)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 3

小がめら

今、桜田淳子を書くことに意味はあると信じます。これからも正当な評価の土俵に乗せ続けて下さい。
by 小がめら (2014-02-02 14:48) 

イワタヤイセタン

小がめらさん

コメントありがとうございます。

この記事を書いていた頃は、淳子さんの評価は厳しいものがあったように思います。
むしろ、歪んだ鏡に映し出される虚像のまま、忘れ去られているようにさえ思いました。

淳子さんが思い出されれば、漁夫の利を得る者がいる。
この繰り返しで、それがジレンマでした。

誰が利するのか、どんな利なのか、その理由は、それらを探らなければ、桜田淳子さんの評価は、砂上の楼閣となるではないでしょうか。

このブログは、複雑に絡まった要因を記録し、ささやかながらも主張し、後々の良識に託そうとするものです。

幸い、こんな体裁の良くない記事ながら、毎日多くの方に静かにお読みくださっています。

過去記事へのコメントへのお返しが遅くなりました。恐れ入りますが取り敢えず、合わせてのコメントとさせて頂きたいと思います。
by イワタヤイセタン (2014-02-04 07:03) 

小がめら

イワタヤイセタンさん、お忙しいなか過去記事コメントへの返信ありがとうございます。
復活組淳子ファンのひとりとして、少しずつですが、後ろから順番に拝読しています。
のちの人達の正当な評価のための良き判断材料になっていること、間違いないと思います。これからも勉強させていただきます。
by 小がめら (2014-02-19 17:11) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。