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参加することの意義 [時事]

クーベルタン男爵の言葉に

『オリンピックは参加することに意義がある』

という、あまりに有名な言葉がある。

これは、今から100年以上前のオリンピックで、イギリスとアメリカが陸上競技の覇権争いを繰り広げていたときに発せられた言葉であると言われている。

勝負への度を過ぎたこだわりへの警告なのだろう。

勝負事は勝たなければ意味が無いのか、そのことに一石を投じた言葉だった。

 

しかし、この有名な言葉にも、新しい意味が込められてしかるべきだろう。

2020年東京オリンピックが開催される。

沸き立つ陰で、福島では原発問題でゆれ、汚染水問題が世界を駆け巡った。

総理大臣の発言が、オリンピック誘致の決定打になったとの見方が強い。

事態は『コントロールされている』という言葉は多義的だ。

しかし、結局相手に伝わるのは熱意であり、その目に見えない、耳に聞こえない空気が、オリンピック委員の投票行動に表れたものだと思う。

東京オリンピック開催まで7年、その間、安心・安全な東京、そして日本を実現しなければならない。

それが、国際的な公約と言っていいと思う。

 

『オリンピックは参加することに意義がある』

このことの意味を、国民である以上真剣に受け止めなければならないのだろう。

 

今、日本社会の常識が試されようとしている。

原発問題、従軍慰安婦問題、竹島・尖閣領有権問題、拉致問題、北方領土問題、などの国際問題にとどまらず、いじめや失業対策など旧態然の問題の解決も枚挙にいとまが無い。

国内的な議論が必要なのだろうが、7年計画で、一つ一つの問題を解決して欲しい。少なくとも、解決への確かな手応えを実感できる世の中であって欲しいと思う。

 

毎日新聞 2013年09月10日の社説

2020年東京五輪 未来への遺産を作ろう

 

私は、幼少期の1960年代、青春期の1970年代を経験して、確かにその時代特有の風があったように思う。

それもひとえに、先輩たちが、戦後の復興を乗り切り、アメリカを目指し、そして豊かな日本にしてきた。貧しくても、明日への希望があり、『いつか見ていろ』という気概があった。

それが、今も心の中に残る。

 

次の東京オリンピックで、今の子供たちが、さらに50年後、その思いを抱けるだろうか。

参加することに意義がある。

それを実感できる東京オリンピックであれば、それにまさる成功は無いと思う。


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東京五輪開催に思う~円谷幸吉は生まれるか [時事]

小学校4年生の時だったと思う。

国語の授業で、アベベ選手の活躍が教科書に掲載され、クラスで議論したことがある。

 

エチオピア出身であることや

はだしで走っていたこと

などしか記憶にないのだが、エチオピアの英雄として紹介されていた。

 

授業は、意味段落をどこで切るかという、事だった。

クラスのほとんどは、アベベ選手の東京オリンピックゴールシーンを一つの意味段落ととらえ、円谷選手のゴールシーンはアベベのゴールシーンに含まれ一つの意味段落になるととらえていた。

クラスで、アベベ選手と円谷選手とは、別の意味段落だと主張したのは、当初僕だけだったが、その後、親友がたぶん同情だろうが、反対に回ってくれた。

その日の授業の大半は、説得だった。

穏やかな賛成派の声は小さくなっていったのを覚えている。

頃合いを見て先生が、いさめるように小さな僕を諫めた。

僕には、そこで意味段落をきると、全体の段落構成のバランスが失してしまうことはわかっていた。

それでも、円谷選手のゴールシーンをおまけ的に扱うのには抵抗があった。

本来なら、国語の教科書に載るのは、国民的英雄として、円谷選手でも良かったのかもしれない。

しかし、既に、円谷選手は自殺していた。

これは、最近知った事である。

僕は、自然とナショナリズムが芽生えていたのだろう。

そしてそれが、小さな議論をゆがめていたことを思い出す。

 

東京オリンピックは、保育園の時テレビの前にならんでみんなで応援していた記憶しか無い。

微かに残る記憶は三宅選手の怪力位だったろう。

あれから、半世紀近くになる。

2020年東京オリンピックではどんなドラマが待っているのだろう。

そして、ぼくは感動する感性を維持しているのだろうか。

 

今の状況は、1964年の時とは異なる。

あのときは、日本が上を向いて歩いていた時代だ。

今はうつむいて歩く人が多い。

開催国として、心の準備をしていかなければならないだろう。

変なナショナリズムに偏ることなく、どうどうと振る舞わなければならない。

 

日本国憲法前文に、日本国民は、『国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う』とある。

今こそそれが、試されるときではないかと思う。

 

しかし、オリンピック開催決まった日、再び、新大久保では、『嫌韓デモ』が始まり。そして『カウンター』が応戦する。

中国や韓国で、半日デモが日常的なのはわかるが、いかにも稚拙ではないだろうか。

これでは、『名誉ある地位は』得られないと思うのだが。

 

日本に、2020年という目標ができた今、『名誉ある』国民としての自覚をしていきたいと思う。

最後に9月8日付けのTBSニュース

東京五輪開催まで7年、残された課題は?

 

出来ることには限りがあるが、小さくとも、心がけは持ちたいと思う。


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嫌韓デモとカウンター~倍返しなのか [時事]

テレビドラマ『半沢直樹』が高視聴率となっている。

我が家でも、一家揃って見ている。

お茶の間が帰ってきた。

日本人には、こうした『水戸黄門』的なドラマが合っているのかもしれない。

わかっていても胸がすく思いだ。

 

ところで昨今、新大久保での『嫌韓デモ』とそれを迎え撃つ『カウンター』が話題になることがある。

幸い、東京オリンピック招致に影響されることはなかったが、この攻防をどう考えればいいのだろうか。

 

まずは、このニュースから

ニューズウィーク日本版 7月30日号掲載

嫌韓デモの現場で見た日本の底力

 

この記事の投稿者はフランス人で、そういう形で世界に発信してもらえば日本人としてホッとする。

このカウンターの人たちの勇気ある行動には敬意を表するのみなのだろう。

 

しかしながら、手放しに喜ばない内容だと思う。

日本はアジアでは最も進んだ法治国家である。

それが、日本の安定した秩序を守ってきたといっていいと思う。

 

そこで、考えてみたい。

『嫌韓デモ』の主催者は、公安委員会への届け出を済ませている。

そういう意味では合法的なデモである。

 

デモ事態は、表現の自由の一形態として、憲法上保障されており、それを妨げれば、その行為は違憲と判断される。

制限すれば、憲法違反の疑いがもたれる。

合法的なデモを妨げれば、しかも届け出なく阻止すれば、憲法違反にあたる。

民間人なら、憲法の直接適用は免れるだろうから、あとは個別の法律が適用されることになる。

そうした個別の法律を通じて憲法の条文が間接適用されたこになる。

 

しかし、カウンターに国会議員などの権力側がいる場合、直接憲法違反の問題が生まれるのではないだろうか。

まして、カウンターの数が圧倒的に多く、デモ参加者を圧倒するモノとなれば、カウンターの違憲性・違法性はさらに強まる。

 

改めるまでもなく、日本は法治国家である。

合法的なデモを実力行使で阻害するのなら、正当防衛、緊急避難などの違法性が阻却されるような場合に限られる。

そうでないなら、警察も含めた司法関係の手に委ねなければならないのだろう。

それなくして、実力阻止が公然と認められれば、法治国家の根幹を揺るがしかねない。

 

『嫌韓デモ』側に比べ『カウンター』側の力関係が圧倒的に多い状況に鑑みて、カウンター側が何がしかの防衛に出た行為であるにせよ、過剰なモノと言わざるを得ない。

 

まして、インターネットを介して、デモに対し、事前に『カウンター』の結集を謀るなら、それは過剰なのではないだろうか

それに国会議員たる有田芳生氏が関与しているという。

表現の自由を保障する憲法に抵触する疑いがあると思う。

それは、もはや正義ではない。

『やられたら、やり返す。倍返しだ。』

そんなかっこいいモノではない。

 

有田氏は、『嫌韓デモ』を『レイシシスト』と呼び、方法を『ヘイトスピーチ』という。

まさに、ラベリング(レッテル貼り)そのものになろうとしている。

 

有田氏はこれまでも、相手を煽った挙げ句レッテル貼りを行い、マスコミの注目を浴びたことがある。

 

ニューズウィークが報道しているようなのモノならば、それは、個人の問題にしておいていいのではないだろうか。

そして、警察を始め、裁判所の判断をまつべきであると思う。

 

もし、法の不備があるのならば、すぐに国際条約加盟に駆け込むのではなく、国内的な法律の整備を行うべきであると思う。

それが、国権の最高機関たる議会の構成員である国会議員の職責なのではないだろうか。

『カウンター』を募り、実況中継するために、税金を払っているのではないと言うことを付け加えておこう。

それが、国勢調査でという名目であっても。


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音楽の力~ピースとハイライト [時事]

サザンオールスターズが、5年ぶりに復活した。

5年ぶりのライブに7万人が熱狂した。


サザンと言えば、今から36年くらい前になるのだろうか。

オールナイトニッポンで『勝手にシンドバット』を聞いたのが最初だった。

当時流行した、『勝手にしやがれ』と『渚のシンドバット』を掛け合わせた曲名で、お笑いのネタかと思った位で、まさに流行のパロディーのような曲だった。


それから、幾度かの休止を経て、今回新曲『ピースとハイライト』をリリースした。



今度の風刺は非常にデリケートな問題を含んでいる。

むしろ、過剰にデリケートになってしまったと言う方が的をえているのかもしれない。


『ピースとハイライト』の歌詞を読んで、明らかに日韓関係を揶揄しているのがわかる。

表現が直接的過ぎるのではないかと思うくらい。


この曲が世に出て、オリコントップになった。

その意味を考えてみようと思う、


歌詞の中で気になる単語をピックアップしてみる。

対話(はな)し

歴史

大義名分(かいしゃく)


上記3つの単語の意味するところは明確だ。

しかし、現在問題の解決の糸口を見いだすことは難しい。


対話が大事なのも、歴史を踏まえた認識が大事なのも、わかる。

そもそも日本、中国、韓国は、ともに統治の仕組みとして、儒教を尊んできた。

日本では、支配層である武士の教養として、中国では科挙の試験問題として、韓国でも同様に、支配層の教養として、儒教の考え方は、国家の枠組みとして制度を維持するのに好都合だった。

大義名分は、そのような儒教とくに朱子学の核心的テーマだったことから、重要視され、転じて、現在では面子とかたてまえを重んじることを指しているようである。

そのことが、問題を複雑化している。


文化的に共通性をもちながら、何故に反目するのだろうか。


それは、きわめて政治色が強い問題となる。


本題に戻すことにしよう。


サザンの『ピースとハイライト』について、政治家により宣伝がされている。

芸能にとっては、非常に不幸なことと言わざるを得ない。


確かに、芸能にはかつて、時代を支える力があり、時代を貫く力があった。

反戦の歌も多く歌われた。

社会に警鐘を鳴らすこともあった。


しかしながら、結果的にわき起こることと、政治的利用とは別の問題だと思う。


今から20年前、桜田淳子さんは、統一教会の合同結婚式に参加して、物議を醸したことがある。

統一教会に対する批判は、宗教色と言うより政治色が強い。

むしろイデオロギー性に由来するところが大であることは、『何をか言わんや』イデオロギーの終焉で検証してきた。


そして、過度に加熱した報道により、政治論争に巻きこまれることを、芸能界は恐れた。


結果、一つの才能を葬ることになる。

僕は、それが合同結婚式の大バッシングの正体だと思う。


再び、僕らの大好きなサザンの曲を政治利用されることは避けなければならない。


それは、政治能力の無能を示すことにもなりかねない。


日本、中国、韓国の冷え込んだ関係は、政治の力で、叡智を集めて解決すべき問題である。

政治に携わる人は、野党といえども、このことから逃げないでもらいたいと切に望む。


音楽の力を引き出すためにも。


追伸  動画のUP主様に感謝します。


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イデオロギーの終焉その5 [時事]

『失われた20年』を読み解こうとするとき、思うことがある。

私が青春時代を過ごした1970年は、厳しいイデオロギーの対立が色濃く残る時代だった。

だからこそ、今の問題を考えるときその陰を見ることができる。

1960年代は、安保闘争から学生運動が血気盛んなときだった。

僕は、安田講堂に放水される様を見て父に尋ねたことがある。

『大学ってこういうところなの』と。

そして、三島由紀夫の割腹自殺に関する一連の報道をみて、この時代劇みたいなことに驚いた。

また、浅間山荘に鉄球がぶつけられる様を見て、目が釘付けになった。

日本は文明国ではなかったのかもしれない。

というより、現代社会が抱える矛盾の象徴だった。

現代社会の抱える矛盾。

それは、個人と社会をどうとらえるかの枠組みの問題だった。

資本主義と共産主義という二つのイデオロギーは、マルクス理論からソビエト連邦の出現により現実のものとなった。

1960年ダニエルベルの『イデオロギーの終焉』により、資本主義社会の豊かな進化とともに、共産主義は終わりを告げるだろうと、知識人は考えていた。

日本は工業化のつけとして、公害問題という代償を支払わされるが、克服して、『ジャパンアズNO.1』といわれるまでになった。

日本は、資本主義を進化させていくことにより、現代社会の抱える矛盾と戦ってきた。

それは、観念での議論ではなかった思う。

実績としての勝利だった。

しかし、何も解決してはいなかった。

問題があるたびに、イデオロギー問題がチラチラし始める。

一例を挙げる。

中島知子さんの問題を受けてのものだ。

有田芳生議員の〝暴言、名誉毀損〟発言について

この文章を読むとき、有田氏と苫米地氏は決して折り合うことはないと思う。

だから、このブログではコメントをすることを差し控える。

書いてあることがすべてだと思うからだ。

しかし、なぜ、名誉毀損という問題までなるのだろう。

その背景には、イデオロギーの問題があるからだろう。

ベルリンの壁崩壊、ソビエト連邦の崩壊という現実は、共産主義国家の崩壊を意味したが、理想国家へ昇華するはずだった国家は、資本主義に敗北したにより、それを信じる者を、資本主義的枠組みの中に抱えることとなった。

そこから、資本主義が迷走し始める。

共産主義の克服という命題がある限り、一つのまとまりを持っていた資本主義が、複雑に分岐することになる。

このことを、伝える記事がある。

東洋経済 日本の教育では、『本物の日本人』は生まれない。

この記事が指摘するごとく、『歴史認識』問題を引き起こしたのは、1992年の朝日新聞だった。

『静かな湖畔に石を投じる必要があったのだろうか』

投げ込んだのは日本人だった。

ジャーナリストは事実を伝えるのが使命である。

しかしながら、あいまいな記事と評価が加えられている。

ここから、迷走が本格化し、『失われた20年』が幕をあけることになる。

まさに、理念無きイデオロギーの対立である。

答えなど無い。

あるのは、国家、国民を巻き込んだ憎悪だけだ。

同盟関係のはずだった日本と韓国の間に深い爪痕を残してしまった。

平和条約とともに終わったはずだったのに。

日本と韓国の亀裂により、漁夫の利を得るのは、北朝鮮ということになるのだろう。

しかしながら、今の日本と韓国の関係を見るにつけ、引けない問題となってしまったことのつけは重い。

それは正しいとか間違っているとかいう問題ではない。

それでも、マスコミは無責任な報道を繰り返すのだろうか。

無責任な芸能人の口を借りてまで。


マインドコントロールというラベルその2―樹木希林さんの慧眼 [時事]

小学生の頃、毎回見ていたドラマに、『時間ですよ』がある。

まだ、白黒テレビが主流だった時代(1970年)のことだ。

森光子さん、船越英二さん、樹木希林(当時悠木千帆)さん、大空真弓さん、松原智恵子さん、川口晶さん、堺正章さんなど、今思えば、芸達者な人が多かった。

そのなかで、樹木希林さんは番組に欠かせない存在だった。

 

その彼女が、中島知子さんの問題で語っている。

先ず、彼女から出たのは、これから先を案ずる言葉だった。

3月31日デイリースポーツニュース

 希林「謝罪よりこれからどう生きるか」

 

それから、報道されたのが次の記事だ。

5月4日デイリースポーツニュース

樹木希林 中島の“脱洗脳”認めず

 

何れも、テレビインタビューを受けてのものだった。

この二つの記事とも、樹木希林さんは、洗脳については触れていないにもかかわらず、記事中では、括弧書きの引用の後、樹木希林さんが、脱洗脳を認めていないように書かれている。

マスコミがどうしても洗脳問題と結びつけたがっていることがありありとうかがえる。

前回ブログで、今の報道は、『事実』と『評価』とが混在している、と書いたが、そうした手法が表われた典型だと思う。

 

上記樹木希林さんの二つの記事を合わせて読めば、次のように読めるのではないだろうか。

最初のインタビューの後の記事については、将来を案じる事への思いやりがあり、二つ目のインタビューの後の記事については、中島知子さんの強さを知るが故の、突き放したような表現は、『自分で這い上がってこい』という思いがあるように思う。

それが、『わたしの存在は必要ないでしょう』ということにつながる。

 

この記事を読み、70年代的な感覚を思い出す。

小さい頃、『かわいい子には旅をさせろ』、『獅子は我が子を千尋の滝に落とす』とかいうことがよく言われた。

僕は、樹木希林さんの記事はそういう文脈で捉えるべきものだと思う。

樹木希林さんのあの実直な人柄は、決して人を上辺だけで見たり、他人の評価に惑わされる人ではないことを、僕らは感覚的に知っている。

中島さんの手紙を見ただけで、本質を捉えた感性は、長年の役者生活から生まれたものなのか、持って生まれたものなのかはわからないが、慧眼だと思う。。

その彼女が、マインドコントロールなり、洗脳などという、人の評価としてはあいまいな言葉に逃げ込むことは考えられない。

それに比べ、芸能マスコミが、いまだに『洗脳』やら『マインドコントロール』という安易な言葉に逃げ、物事の本質を捉えようとしないのなら、まだまだトンネルは続くのだろう。

そして、その言葉でしか視聴率や部数が稼げない報道には情けなく思う。

 

中島知子さんの問題について、僕は賛成でも反対でもない。

しかし、今回の中島知子さんの問題は、マスコミが、『洗脳』『マインドコントロール』という不確かな概念を使い、本質を見誤らせる事についての警鐘のように思う。

中島さんが再び表舞台に出てから、1ケ月が経過した。

一進一退を繰り返しながらも、中島知子さんの問題は、先が見えてきたのかも知れない。

フログなどで、発信できることが大きく寄与していると思う。

 

今思い返せば、20年前、桜田淳子さんがバッシングを浴び、それまでの彼女の貢献が風化させられたことが、思い起こされる。

あの時と、決定的に異なるのは、ネット社会になったことだろう。

情報発信が、マスコミに独占されなくなったことにより、多くの批判にさらされる。

そして、いろいろな意見が飛び交う。

あふれた情報の中で、正しい認識が求められるように思う。

 

今なお信じ続けるファンがそうであるように、僕は桜田淳子さんを信じている。

信じることから、真実が得られるものだと思っている。

70年代的解釈が常に正しいとは思わないが、少なくとも、淳子さんの問題を解決するには、70年代的感覚は不可欠だと思う。

それは、過去への回帰ではなく、『失われた20年』への不満ではなく、未来への希望として。


イデオロギーの終焉その4~中島知子さん問題そして桜田淳子さん [時事]

桜田淳子さんはマインドコントロールもしくは洗脳されているのか。

しかし、そもそもマインドコントロールとは何かを考えることは、このブログ作成を始めるにあたっての大きなテーマだった。

しかし、構想はあっても、主張するには材料が少なすぎた。

ブログが、いかに個人的なものとはいえ、公開する以上、そしてこれまでの半ば確定した方向性に向かうことは大きなリスクを伴うものであった。

苫米地英人氏の次の記事は、ほぼこれまでのこのブログで語ったことを証明してくれているように思う。

4月19日

『オセロ中島騒動のキーマン苫米地氏独占インタビュー中島さんは洗脳されてない』

この記事が語るものは多い。

洗脳とかマインドコントロールがそうたやすくできるものではないこと

テレビのジャーナリストの食いぶちになっていること

それは左翼ジャーナリストが演出していること

そして、マスコミのえん罪で人権問題であること

すこし、公のインタビューにしては、過激な発言が並び、マスコミ関係者にとっては耳が痛いだろうが、一般感覚では納得いく記事ではないだろうか。

1992年、桜田淳子さんらが合同結婚式に参加した後、マインドコントロール、など、間違った理解をされてきたことの土台が確実に崩壊してきたように思う。

あの事件から始まった『失われた20年』の崩壊の序曲であることを信じたい。

そして、芸能界が、芸能マスコミに縛られず、本来の機能を取り戻し、個性ある、自由なアイドルをはじめとする活気あるスターが再び誕生することを祈る。

これまでの苦難を切り抜けるのに、政治の役割より、活力ある芸能界が大きな役割を果たしてきたことは、このブログでも書いてきた。

戦後の混乱のときもそうだし、オイルショックの時もそうだった。

今の苦難を乗り越えるには、芸能界の役割は欠かせない。

そのためには、個性を失わせるような、少数の芸能事務所が取り仕切る芸能界にしてはいけないのだろう。

私は、70年代、青春時代を過ごしたものとして、幾多の大事件があったにもかかわらず、70年代は明るい活力ある時代だったように思う。

そのときの芸能界の活力は今に思うと、芸能人の個性のオンパレードだったし、テレビ界もスタッフも、そしてファンも参加してのものだったように思う。

桜田淳子さん、山口百恵さんら個性あるアイドルたちがブラウン管を賑わわせ、子供はピンクレディの振り付けのまねをして遊んだ。

それは決して、現実を逃避したのではない。

現実に向き合ったつかの間のひとときを彼女らと過ごしたのだ。

個性ある芸能人が、癒やしてくれる日はくるのだろうか。

そのためには、芸能誌者をはじめとした、マスコミの協力的態度、前向きな支援は欠かせないと思う。

中島さんの今回の騒動をきっかけとして、そういう機運が盛り上がることを希望する。


マインドコントロールというラベル~中島知子さんの問題 (補足) [時事]

物事の本質を見極めようとするとき、そして表現しようとするとき、事実と評価とは分けて考えるべきではないだろうか。

そうでなければ、評価者の評価内容が、事実として受け止められてしまうからだ。

しかしながら、マスコミ特に芸能マスコミの記事は、事実と評価とか混在しているばかりでなく、編集方針の名の下に、評価は決定されており、そのための都合のいい事実だけが集められている気がしてならない。

なかには、どう考えてもつじつまの合わない事が事実として語られていく。

その歪みを直しながら読むのは、実に骨の折れる作業だと思う。

読者が、苦労しなければ読み解けない記事とは何なのか。

結果として、砂上に楼閣化した記事は、いつの日か一つの事実により無残に崩壊することがある。

 そういった意味で、前回紹介したが、中島知子さんの問題に対して、苫米地氏のテレビでの発言は重要な転機だったと思う。

 4月11日、お互いの円満な話し合いにより『オセロ』は解散となった。段取りをしたのは、所属の松竹芸能だった。

 中島さんがマインドコントロースされてないとの報道がされてからのすばやい幕引きだった。

今後は、所属プロダクション抜きで、中島さんの話題が語られることとなるのだろう。

芸能界としては、収束を早めたのかも知れないが、これでハッピーエンドにできる内容ではないと思う。

そもそも、今回の騒動の発端は何だったのだろうか。議論はマインドコントロールに集中したのでないのだろうか。

そしてマインドコントロールの典型事例のように報道されたのではないだろうか。

そのことを検証する上で、ネット上の記事ではあるが、次の記事は参考になると思う。

2012年2月27日の記事

『売名に、視聴率アップに!とことん利用されるオセロ中島の“洗脳”騒動』

この記事の中で、『報道されてることにウソも多い。本人に会ってもいない政治家が洗脳されたとテレビでペラペラ喋りだしたことの影響も大きくて』といい、実名が挙げられている。

この記事は正しいところをついているのだろうか。

 そこで、ネットでは容易に検索する事ができる記事を集めてみた。

2012年2月16日『オセロ』中島知子さんに寄生する悪質霊能者の過去

2012年2月17日『オセロ』中島知子さんを支配する女性霊能者の欲望

2012年2月18日『オセロ』中島知子さん問題の本質は『一人カルト』だ

 

この三つの記事を読んで、今でさえ事実関係はつかめないのに、この時点でどこまで事実関係が明らかになっていたのだろう、と考えさせられる。

それにもかかわらず、最初から、マインドコントロールと決めつけて、中島さんが被害者で、占い師が吸血鬼のような霊能者になっている。

 確かに、一見、中島さんを救出する、ホワイトナイトの記事のように見えるが、私にはマインドコントロールという言葉を周知しようとする意図が感じられる。

 この時点で、『マインドコントロール』、『カルト』と決めつけるだけの証拠があったのだろうか。

しかも、面識のない相手に対して。

 最初から、答えは決まっていたとしか思えない。

 マインドコントロールされているという評価が先行していると思う。

著者が、一般人ならたわいもない話とも受け止められようが、元ジャーナリストで現職の国会議員ともなれば、権力者であるから調査能力はあり、一般人への人権など高度な配慮が必要になるという前提での話だ。

ブログの中で、著者の有田芳生氏はいう。

『報道がようやくマインドコントロール問題として扱うようになってきたことは前進だ。』という言葉で、記事は結ばれている。

 『前進』とはどういう意味だろうか。

僕には、『マインドコントロール』という言葉の周知こそが問題で、中島さんの問題の解決に、心はないように思えてならない。

『前進』とは、マインドコントロールという言葉の一般化を指すようにしか思えない。

 

以前書いたが、今から、20年前の桜田淳子さんのバッシングでのことが二重写しになる。

あの事件では、芸能マスコミは一体となって、『霊感商法』、『カルト』という言葉を一般化し、ラベルとして貼り付けることに成功したかも知れない。

しかしながら、それにより、真実の解明が遠のいたのではないだろうか。

ラベリングの怖さは、単に人を封じ込めるだけではなく、その言葉によりあたかも全て証明され尽くされたかのような錯覚に陥る効果にある。

以後、『マインドコントロール』は何の検証もなく、だれでも使うようになり、著しく行動を制約し、個性を喪失してきたのではないだろうか。

 

『洗脳』が、主に共産主義政権下で、思想統制として行われてきたように、マインドコントロールという言葉が今の社会にもたらす弊害は大きい。

 安易に『マインドコントロール』という言葉に逃げ込んで、解決したように見せかけるのは、自由主義的観点からは、理解できない。

 『マインドコントロール』は、心を支配された人の救済として、裁判での法廷戦術として、使用されるのなら理解できる。

それは、裁判官という公平な立場がいるからであり、証拠の提示が担保されているからだ。

 『マインドコントロール』なる不確かな概念を、安易に日常で使用されることには多くの問題があることを理解しなければならないように思う。

芸能マスコミらによる恐ろしきラベル貼りの歴史が、改めて無造作に繰り返されたことを指摘しておきたいと思う。


中島知子さんの問題~ラベリング論その2 [時事]

中島知子さんが3月28日に行った単独インタビューに対して、4月6日所属事務所の処分が発表された。

 

契約解除のようである。


この問題を考えることは、どうどう巡りのパズルを解くような気持ちにさせられる。


そもそも、単独インタービューの直前に所属事務所に専属契約解除の申し入れをしているのであるから、単独インタービューは、覚悟の上でのものと受け止めるのが普通だろう。


所属事務所は、芸能活動再開は『精神状態と健康状態が万全でなく、弊社による継続的サポートが必要』と判断して、引き留めたとのことのようである。


しかしながら、この『精神状態と健康状態が万全ではない』とは、何を意味するのだろうか。


4月5日のこの記事をどう理解するのかにかかっている。


オセロ中島、マインドコントロールされていない!?苫米地氏が見解示し、芸能界復帰はいつでも可能


確かに2013年3月29日にテレビ朝日系「ワイド!スクランブル」の単独インタビューをみて、生活環境や考え方の相違があるのは当然としても、論理展開として違和感はそれほど感じなかったし、言語学的に見て、中島さんの言動はマインドコントロールされているとはおもえないとのことである。

それならば、事務所の発表する『精神状態と健康状態が万全ではない』というのは、マインドコントロール以外のことを示すのだろうか。

そうすると事務所の発表は、感想を述べているに過ぎないようにしか思えない。


しかし、労働問題、契約問題においては、主観で契約を解除することはできない。


そうすれば、今回の契約解除は、『事務所のいうことを聞かないから』ということではないだろうか。


継続契約の場合、それが、すぐさま法的に契約解除理由になるとは思えないが、中島さんの契約解除の申し入れを受けてのものならば、今回の解約は法的には合意解約になると思われる。


とすれば、中島さんの今後の復帰に障害はなくなることになる。


前回述べたが、今回の騒動は、やはり、子供が倉庫に隠れて大人が探しにくるのを楽しむ的な滑稽さがあるのではないだろうか。



しかし問題は、それにとどまらない。


今回の騒動に対し、中島知子さんに芸能マスコミや所属事務所が貼り付けた『マインドコントロール』なるものの正体を見た思いがする。


その正体が、事務所などの方針に従わない事に対し、他からの誘導という便法として、マインドコントロールという言葉が使われたとしたら、恐ろしい人権侵害ではないだろうか。


これが、『ラベリング』というものの、恐ろしさなのだろう。


芸能マスコミなどが、他とは違う行動をする人に、科学的根拠もなく『マインドコントロール』という言葉を使い排除するのならば、芸能人の個性は全て無くなるのではないだろうか。


それは、芸能界の魅力の喪失と、視聴者の楽しみを奪うものだといわざるを得ない。


1992年、桜田淳子さんの騒動で、芸能マスコミが攻撃した事実について、こうしたマスコミのあり方についての積み重ねは、検証材料になるのだろう。


安易に『マインドコントロール』という言葉に逃げ込むのは、物事の解決への道筋を遠ざけるのではないだろうか。

 

『失われた20年間』の間違いがここにもあるのかも知れない。


ラベリング理論~桜田淳子さんと中島知子さん [時事]

桜田淳子さんと中島知子さんと並列すると、洗脳問題。マインドコントロール問題に行きつくようだ。

 3月29日の中島知子さんへのインタビューに関して、様々な問題が提起されている。

家賃滞納が悪いのはわかっている。

それは、民事問題で、大家さんとの関係で決まるそして、本人がわかってやっているのだから、今更、批判するまでもない。

病気が治っていない、という意見がある。

マインドコントロールは医学的に証明されていないという認識なのだが、それを病気というなら、合点がいかない。

 マスコミは、問題が発覚してから、占い師からの洗脳、引きこもり、仕事をしない、家賃滞納 という流れで報道を先行させているのだろう。

 しかしながら、中島さんのインタビューを聴いて、自分の言葉で話しているように聞こえたし、デーブスペクターさんも特段変わった様子を感じなかったようである。

私も経験があるのだが、幼少の頃、保育園に行く途中、通り道の倉庫に半日立てこもったことがある。

 周りを困らせるのが楽しかったのかも知れない。

周りが騒げば騒ぐほど楽しかった。 今回の中島さんの騒動は、どうもたわいのないことのような気がしてならない。

社会学に『ラベリング理論』というのがある。

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Wikipediaによれば、ラベリング理論とは、《逸脱行動》に関する理論であり、1960年代ににシカゴ学派に属するハワード・ベッカー(Howard S. Becker)らによって提唱されたものである。

それまでの、《逸脱行動》を単なる社会病理現象として扱ってきたアプローチとは一線を画し、《逸脱》というのは、行為者の内的な属性ではなく、周囲からのラベリング(レッテル貼り)によって生み出されるものだ、と捉えるものである。

それまでの社会病理学的なアプローチでは、たとえば“髪を染めている者が「不良」だ”などと勝手に定義することによって「《不良の定義》は客観的に成立する」としてしまうような、非常に単純な考え方をしていた。

だが、ベッカーは1963年に初版が発刊されたOutsidersにおいてそうした考え方を排し、

「逸脱などの行為は、他者からのラベリング(レッテル貼り)によって生み出される」と指摘した。

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 この理論に当てはめれば、この問題はこうなる。

 まずは、YouTubeにUPされている中島さんのインタビューを信じる事から始める。

中島さんには、使い切れない収入があり、それにつきあってくれ、相談に乗ってくれる人がいた。

中島さんは、仕事の休みをとるようになる。

マスコミは、仕事をすっぽかした時点で騒ぎ始める。

そして、原因を探し始め、たどり着いた結論が、女占い師の洗脳から、家賃滞納までのプロセスになる。

いくつかある選択肢から選ばれるのは、センセーショナルな見出しと、ミステリアスなストーリーだけだ。

そして、その中島さんの逸脱行為に対して、洗脳またはマインドコントールという桁外れのレッテルを貼り付ける。

中島さんは、あて推量の報道に嫌気がさし、ますます、意地をとおし、殻に閉じこもる。

収入が途絶え、家賃を滞納ようになる。

これがさらに報道とともに、逸脱行為をエスカレートさせる。

いささか、モデル化したが、これが、今回の中島問題にラベリング理論を当てはめたストーリーとなるのだろう。

これは、中島さんを信じるという前提に立つ。

ただ、社会的な逸脱した行為が、ラベリングにより、強化継続されたにしても、それは、中島さん本人の社会的責任が軽減されるわけではないということは、指摘しておかなければならない。

 それにしても、中島さんの逸脱行為は、こどもが倉庫に隠れて大人が騒ぐのを楽しむようなモノだったとすれば、今回の騒動は、いいようのない滑稽さとしか表現できない。

この単純化できる構図に比べて、桜田淳子さんの問題は、思想性が絡むだけに少し腰を付けなければならない。

有田芳生氏の『桜田淳子の芸能会復帰はない』という記事の前後を少し整理してみたい。

 桜田淳子さんは、『アイスルジュンバン』を書き下ろしたとき、社会一般の自分自身に対する否定的評価をもちろん理解していただろう。

 それでも、『アイスルジュンバン』の出版に踏み切ったのは、ある意味、社会的な存在証明であると思う。

 しかし、本来そこに書かれてないにもかかわらず、貼られたレッテルは『統一教会』の広告塔だった。

そして、有田氏により結びつけられたのは、彼が1980年代共産党機関誌『あかはた』とともに、展開した、統一協会をターゲットにした造語『霊感商法』だった。

 『霊感商法』という言葉の社会的認知は、有田氏の功績だと思う。

それゆえ、有田氏はこの言葉にこだわる。

それを、桜田淳子さんにはりつけたのも、1992の合同結婚式以後のことである。

統一協会 ⇒ 霊感商法 ⇒ 桜田淳子

この一連の言葉の結びつきこそ、有田氏を有名にしたといっていい。

 これを、社会学では『ラベリング』という。

 これらのラベリングにより、『アイスルジュンバン』や、2007年2月献花という行為さえ、逸脱行為と見なされてしまう。

 しかしながら、ラベリングこそが、逸脱行為を生み出すものなのだというのがラベリング理論である。

 このラベリング理論は、戦時中は、共産主義者にも貼られていた。

『あか』という一言で語られるのがそれを示す。

そして、公職追放の後に、連合国司令長官の指示の元に、レッドパージへと進んでいく。

 イデオロギーとラベリングが結びつくとき、『追放』ということに結びついてしまう。

そこには、共存はあり得なくなってしまう。

そのことを、歴史の教訓の上に学ぶべきだと思う。

『桜田淳子の芸能会復帰はない』という記事には、1970年代、80年代、統一協会が、勝共連合として、共産主義打倒を目指した、統一協会への有田氏の強い思いがある。

 そのことのイデオロギーがベースになり、ラベリング的手法がとりいれられていることに、この記事の社会学的問題が潜んでいる。

しかし、問題はこれからだと思う。

それだけなら、過去のこと、一人の芸能人のことに過ぎないと一笑されよう。

しかし、前回紹介の、佐野氏が、橋下大阪市長に対して、『ハシシタ、奴の本性』という記事への同調を読むに付け、イデオロギーの根深さを感じる。

 イデオロギーの対立の前に『人権』という視点は後退してしまう。私は、そのことの危惧を訴えたい。

ジャーナリストであろうとするならば、本来戦うべきは、桜田淳子さん個人ではなく、統一協会の持つ根本的問題にあるのではないだろうか。

有田氏が、統一協会の霊感商法を唱えて、30年近く立つ、それでも、何ら解決されないのは、問題にすべき点がずれているか、根本問題に踏み込めない情けなさがあるのではないだろうか。

そして、有田氏が、国政の要である立法府の国会議員であろうとするのならば、個人攻撃は避けるべきであると思う。

次回は、記事の内容に踏み込んでみたい。


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