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流されはしなかった~最終章 [桜田淳子]

最近、古本屋で、山口百恵さんの『蒼い時』を、偶然発見した。

内容は、概ねわかっていたつもりだが、読むのは初めてだった。

誰しもが抱える心の葛藤など、読む必要はないと思っていたのが、本音のところだ。

しかしながら、山口百恵さんの特殊な境遇を割り引くとしても、『蒼い時』が、華やかな芸能界にいて、トップアイドルの内面を自ら描いたものであるように、僕は、桜田淳子さんのファンとして、ささやかなわだかまりを書くべき時が来たように思う。

高校に進学してすぐのことだった。

『スプーン一杯の幸せ』を観た後、帰りに長いアーケード街にある大きめの本屋で、同名のエッセイを立ち読みしたが、結局買ったのは、大柄な僕とは不釣り合いとも思える可愛い挿し絵の入った詩集だった。

小さな詩集をカバンに押し込むと、長いアーケードの閉まりかけた商店街を抜け出し、電車通りで、バスを待った。

その時だった。

突然アンケートを求められた。

学生服に身を包んだ僕は、バス待ちの暇潰しに応じたが、その後、もう少し話をしたいと言うので、連れ出された。

間口の狭いある民家に行ったところ、そこには、数人の男女がいた。

僕は、背中を押されるように中に入った。

その後、徐々に人は増え、狭い空間は所狭しとなり、やがて意味不明な問答が始まった。

ひ弱に思える彼らを見て、取り囲まれても不安には思わなかったが、だんだん面倒くさく不快に思ったものの、人並みをかき分け狭い間口を外に出ることは不可能だった。

僕は、観念して応じたが、もともと頑固な性格が、この場面は幸いしたのだろう。

2時間位で、僕は解放され、下宿に帰った。

大学生の頃だった。

友人が、『原理研に入ると、桜田淳子に会えるかもよ』というようなことを言ってきた。

原理研って、イスラム教か何かかと聞いたことと、キリスト教ぽいということ、気の弱そうな数人の同好会だったという返事だけは、覚えている。

そして、そんな訳ないだろうということでその場は終わった。

その友人からは、コマ劇場のミュージカルを誘われたり、Misskissは好きだが、ミスティはどうもねぇという話やら、石野真子の親衛隊には、桜田淳子の元親衛隊が多いという話やら、当時としては、たわいもない話を聞かされた。

社会人になってしばらくしてからのことだった。

上司が営業マンから貰ったとかで試飲用の『メッコール』を持ってきて、感想を聞いてきた。そして、『オーロラの下で』の映画観賞券をくれた。

僕は、ドキドキしながら、晴海通りの下にある銀座の映画館に行った。

それから、翌々年の2月のことだった。

家内が週刊誌を読んでいたので、偶然のぞき見したが、統一教会の文鮮明氏が特例で来日するような記事が書いてあった。それが発端だった。

統一協会という名前を知ったのは、実はその時が最初だったといっていいと思う。

オウム真理教やその他の新興宗教が話題になることはあったが、その類の些細なことだった。

数か月後、朝、出勤間際に、家内が桜田淳子さんの記者会見のニュースを知らせてきた。

僕にとっては、相手は、芸能人かスポーツ選手か、または実業家か、いづれにしても、おめでたいことぐらいにしか思わなかった。

家内の方が、情報に詳しく、それがお目出度くないのよというようなことをいっていた。

僕は、毎日毎日、残業やら早出やらで、ろくにテレビを見る暇もなく、時折、電車に下がる広告を眺める程度で、特段感想もわかなかった。

しかし、桜田淳子さんが、幸せになることは疑いをもたなかった。それは、中学以来から積み重ねられた記憶の集積によるものだったのだろう。

これらは、全て、一過性の、たわいもない記憶に過ぎないはずだった。

しかし、今から4年半前、偶然YouTubeで、桜田淳子さんを見つけ、興味を持って調べてみると、とんでもないことになっていることに、たじろいだ。

淳子さんは、幸せになれなかったのではないか。

そう思い始めると、いてもたってもいられなくなった。

そして、色々な過去の記憶が、断片化され、万華鏡の様に組み合わせを変えながら、青春時代のポジティブな淡い思い出が、ネガティブなものに変質していく怒りを覚えた。

そして、ブログを書くことにした。

最初、否定的なことが頭をよぎり、思考を好転させることができなかった。

紆余曲折の末、たどり着いた答えは、霊感商法でも、マインドコントロールでもなく、イデオロギー問題だということに気付いた。

問題の全ては、そうでなければ困ると考える人たちのロジックにすぎない。

左派的な思考を抜けられないコメンテーターや弁護士、国会議員。

そして、1992年の合同結婚式に端を発した、バッシング騒動は、多くの誇張を伴った。

それは、憲法の条文を踏まえるまでもなく、現代の人権感覚では当然だと思われた精神的自由に踏み込む異様なものだった。

桜田淳子さんの『声の手紙』で、人の『良心』に触れられている。

そこでは、文字通り『良い心』という意味で、秋田を離れるときの、友達の苦言が紹介されている。それを聞きながら、ふと考えた。

法律の世界では、『良心』は、道徳的な意味は含まない。むしろ『内心』といった方がいいのかもしれない。

『良心の自由』の意味するところは、踏み絵を踏ませて、人の内心を測ることはできないということではないか。

しかし、結果的に『合同結婚式』は、桜田淳子さんが、芸能界に残るかどうかの踏み絵となってしまった。

江戸時代の踏み絵で、人の生死を決めるのを、残酷だと思う我々だが、『合同結婚式』参加で、人を評価してしまったことを、将来の人は、どう考えるのだろうか。

道徳的な意味でも、法律的な意味でも、人の『良心』が尊いことは、同じだと思う。

昨年暮れ放送の『伝説の芸能60年史』の桜田淳子さんの正直な受け答えを見て思うことは、もっと違った解決はできなかったかということだ。

それでも、淳子さんは、周囲の反対を押しきり、ご主人と船出した。

文字通り、自分を貫いた。

前回紹介の『淳子さんの講演』を読んで感じたことが三つある。

一つ目は、最初、無名の統一協会のシンボルとして、淳子さんの芸能活動を妨げないよう、それは『公然の秘密』として、形式的に入会していたにすぎないのではないか。

二つ目は、合同結婚式参加が踏み絵となり、結果的に『恨』を持つことで、心の闇を探すようになったのではないか。

三つ目は、淳子さんが『恨』を克服したとある。

それならば、もはや、旧統一協会に留まる必要はないのではないか。

そんなことさえ思えてしまう。

ただ一つ言えることは、淳子さんは、ご主人とともに、川の流れに流されず、昇りきられたことは間違いないだろう。

流されはしなかった

動画のUP主様に感謝します。

本文の全ての文責は、イワタヤイセタンに存します。


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